Memento Mori -Books,Cinema,Art,and more-
# 2
静かなる森の住人
2020.3.5

本当に怖い森に彷徨うのは嫌なものだけど、映画と本の森のラビリンスにはどっぷりとはまり込みたい。そんな深い森についての映画と本を毎回1冊ずつ取り上げ、テーマに合わせて読み解いていくのがこの「Memento Mori」の世界だ。今回は、なぜ森に住むのか?“森の住人”についてである。

文:兵藤育子/写真:敷地沙織

森で暮らす一家が
外の世界で見つけたもの

©2016 CAPTAIN FANTASTIC PRODUCTIONS, LLC ALL RIGHTS RESERVED.

現代社会と距離を置いて暮らそうと思ったら、人はどこに居を構えるのか。海の近くや無人島もいいが、木々に覆われ、静かで、食べるものや飲み水に困らず、煩わしい人付き合いも限られている森は、格好のシェルターといえるだろう。

映画『はじまりへの旅』の舞台は、アメリカ北西部の森の奥深く。冒頭、どこまでも続く広大な森が上空から映し出されると、カメラは森の内部へと入り込み、草を食む巨大なシカをとらえる。木陰には全身に泥を塗って景色に溶け込み、息を潜めている青年がいる。彼が自分の体よりも大きいシカをナイフ1本で素早く仕留めると、同じように泥を塗りたくった子どもたちが方々から出てくる。そして最後にゆっくりと現れた人物が、何かの儀式のように死んだシカの血を青年の鼻筋にうやうやしく塗り、「今日少年は死んだ、これでお前は男だ」と告げる。

©2016 CAPTAIN FANTASTIC PRODUCTIONS, LLC ALL RIGHTS RESERVED.

この森に暮らしているのは、家長のベン・キャッシュと6人の子どもたち。シカを仕留めた18歳の長男を筆頭に、15歳の双子の少女、12歳の次男、9歳の三女、7歳の三男と年齢も幅広い。父親は厳格で、教育方針がかなり個性的。電気やガス、インターネットももちろんない環境で、冒頭のように狩りをする自給自足生活。そのくらいならまだ想像の範疇といえるが、彼らは誰も学校に通わず、父親の指導のもと古典文学や哲学書を読みふけり、6カ国語をマスター。トレイルランやロッククライミングで鍛え抜き、アスリート並みの身体能力を持つ。外界に出たら、かなり生存能力の高い子どもたちなのだ。

©2016 CAPTAIN FANTASTIC PRODUCTIONS, LLC ALL RIGHTS RESERVED.

鳥のさえずりを聞きながら瞑想をしたり、焚き火を囲んで即興演奏が始まったりなど、自然とともにある仲の良い一家の暮らしは充足しているように見えるが、彼らに唯一欠けているのが母親の存在。数年前から森を離れて入院していた母親が、ある日、森に戻ることなく亡くなってしまう。嘆き悲しむ一家は、葬儀に出席して母親のある願いを叶えるべく、2400キロ離れたニューメキシコへ父の運転するバスで向かうことに。

©2016 CAPTAIN FANTASTIC PRODUCTIONS, LLC ALL RIGHTS RESERVED.

下界に降りた子どもたちは、道路沿いのショッピングモールに驚き、ダイナーでホットドッグやハンバーガーに目を輝かせるが、コーラを“毒の液体”とみなす父親におあずけを食らってしまう。旅が進むにつれ、森で生まれ育ち、外の世界を知る術のなかった子どもたちと、文明を拒絶して森の暮らしを選んだ父親との違いが徐々に顕在化して、楽園の王として君臨していた父親の絶対的な地位が揺らぎ始める。

©2016 CAPTAIN FANTASTIC PRODUCTIONS, LLC ALL RIGHTS RESERVED.

エキセントリックな家族ではあるけれども、ここで描かれているのは、子どもを愛するあまり、自らの価値観を押し付けてしまう親のエゴや、必ずしも親が正しくないと気づいてしまったときの子どもの戸惑いなど、普遍的な親子関係だ。父にとって森はシェルターだったけれども、子どもたちにとってはそうとも限らない。そのことを親子が悟ったとき、どんな選択をするのか。コミカルかつシニカルな家族が、愛おしく思える作品だ。

『はじまりへの旅』
監督:マット・ロス
製作年:2016年
製作国:アメリカ
DVD価格:3,800円
発売・販売元:松竹

私たちの常識を揺さぶる
森の民の“当たり前”

「プナンは日々、生きるために食べる。生きるためには、食べなければならないというテーマがあるのみ。そのことがプナンの日常の中心にどっしり根を張っている」(作中より)

常識や習慣というのは、考えることを停止させる便利かつ厄介なものだ。奥野克巳さんの『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を読むと、そのことを幾度となく痛感する。

ここでいう森の民とは、マレーシア、インドネシア、ブルネイの3つの国からなるボルネオ島に暮らす人口約1万人の狩猟採集民、プナンのこと。奥野さんは、マレーシア・サラワク州を流れるブラガ川上流域の熱帯雨林に暮らす500人ほどのプナンのもとに2006年から訪問を繰り返し、通算600日ほどを彼らと共に過ごして本書を記している。

タイトルにもなっている「ありがとうもごめんなさいもいらない」とはどういうことなのか。著者は当初、町で買った自分のバイクを彼らに貸しても、お礼のひと言もないどころか、タイヤをパンクさせても謝罪もないことに居心地の悪さを感じる。一方で周りのプナンも、過失や失敗をした人に責任を求めたり、謝罪を強いるようなことをしない。そういった姿を見て、反省しない(あるいは、反省する)とは、そもそもどういうことなのかという疑問が湧いてくる。

現代の日本は反省がある種の美徳とされ、ときにまったく関係のない人が過失を犯したとされる人物に、謝罪を強要するような場面がよく見られる。まさに反省の横行だ。著者はやがてプナンと過ごすうちに、「現代日本社会で、反省しないで暮らせたならば、なんて気が楽になるだろうかと感じられて、反省しないで生きていくことを宣言したくなる誘惑に駆られる」という思いに至る。

「ありがとう」についても同様で、プナンの社会ではもらったものを惜しげもなく分け与えることが期待され、ケチであることは嫌われる。ゆえにもらった側が感謝を伝える必要がなく、そういう言葉自体も存在しない。

ほかにもプナンで「結婚」に相当するのは、“体の関係”が続いている期間で、それがなくなったら「離婚」とみなされることからは、結婚の意味について考えさせられる。日本の仏教では死者に戒名が与えられるのに対して、プナンでは亡くなった人の家族や親族が名前を変え、遺品をことごとく処分する風習があり、死者の悼み方、遺された者の心の癒やし方の違いが如実に表れている。

いずれにしても、自分たちの社会に当たり前にあるものがなかったり、ないものがあったりすると、どちらが便利とか優れているとかではなく、「あるもの」や「ないもの」の本質に立ち返らざるを得ない。それが文化人類学の面白さであり、森の民プナンは現代に生きる日本人の常識を易々と覆してくれる。

『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 著者:奥野克巳/亜紀書房1800円(税別)

兵藤 育子 (ひょうどう・いくこ)
海も山も近くにある、山形県酒田市で生まれ育ったライター。山育ちの亡き父に山菜採りやキノコ採りに連れて行ってもらったのが、自分にとっての森の原風景。主な執筆ジャンルは、旅、映画、本、漫画、人物インタビューなど。写真は熊野古道の大雲取越。