本当に怖い森で彷徨うのは嫌なものだけど、映画と本の森のラビリンスにはどっぷりとはまり込みたい。そんな深い森についての映画と本を毎回1冊ずつ取り上げ、テーマに合わせて読み解いていくのがこの「Memento Mori」の世界だ。初回は、「異界の入り口としての森」である。
孤独な少女が踏み入れた
森から始まる迷宮の世界
森は“こちら”と“あちら”の世界をつなげる場所だ。『白雪姫』や『ヘンゼルとグレーテル』などグリム童話に登場する魔女は森の中に暮らしているし、鬱蒼として昼間でもあまり光が差し込まないような薄暗い森は、日常では出会わない人や現象と遭遇する、象徴的な場所として描かれることが多い。
半魚人と人間の女性の恋愛を描き、2017年度のアカデミー賞で作品賞、監督賞などを受賞したギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』。厳しい現実から目を背けるようにして、異形の生き物と恋に落ちる女性の痛々しいほど純粋な姿は、同監督による出世作『パンズ・ラビリンス』(2006年)の発展型といえるだろう。
ダーク・ファンタジーの名手とされるギレルモ・デル・トロ監督が、『パンズ・ラビリンス』の舞台に選んだのは、フランコ独裁政権下で重苦しい空気に包まれていた時代のスペイン。物語は、やさしかった仕立て屋の父親を亡くした少女オフェリアが、身重の母親とともに住み慣れた街を離れ、馬車で森へ向かうところから始まる。母親の再婚相手でお腹の子どもの父親である、独裁政権のヴィダル大尉がいる砦に移り住むためだ。
オフェリアはおとぎ話が好きで、いつも本を開いて空想の世界に浸っているような少女なのだが、あるとき薄暗い森の中に秘密の入り口を見つける。以降は異形の生き物が次々と現れ、『不思議の国のアリス』を彷彿とさせる展開なのだが、アリスと違ってオフェリアはあちらとこちらの世界を何度も行ったり来たりする。あちらの世界でオフェリアは、自分が魔法の王国のプリンセスだと告げられ、本来の居場所である王国に戻るための試練を与えられる。一方でこちらの世界に戻ってくると、母親は新しい夫の顔色ばかりうかがっているし、冷酷な父親は生まれてくる子どものことしか興味がない。
そして少女のほかに、森を行ったり来たりしている人物がもうひとりいる。オフェリアのことを唯一気にかけてくれる家政婦のメルセデスなのだが、彼女は大尉が掃討しようとしているレジスタンス運動に危険を冒しながら協力していて、森の中に潜伏する彼らに薬や食料をひそかに届けている。言ってみれば、現実の世界も森を境にふたつに分断されているわけだが、そもそもオフェリアが行き来しているあちらの世界が実在するのか、あるいは孤独と不安を抱える少女が生み出した妄想なのかは、観ている者にもわからない。
戦争という理不尽な現実を前にして、オフェリアはオフェリアのやり方で、大人になっておとぎ話と決別したメルセデスはメルセデスのやり方で、正しく生きるために森を行き来する。ふたつの世界が溶け合うときに目にするのは、希望なのか、絶望なのか。それもまた、観る者にゆだねられている。
『パンズ・ラビリンス』
監督:ギレルモ・デル・トロ
製作年:2006年
製作国:スペイン・メキシコ
DVD価格:1,500円(税別)
発売元:カルチュア・パブリッシャーズ
販売元:アミューズソフト
柳田國男×水木しげる
遠野の野山で出会う妖怪たち
「水木サンは、見ているうちに かすかだけど 前世に遠野にいたような気がしてきたネ」(作中より)
八百万の神が信仰されてきた日本においても、森や山などの自然は畏怖すべき場所だ。古の日本人のこうした自然観や宗教観がよくわかるのが、岩手県遠野地方の伝承を記録した柳田國男の『遠野物語』だ。農商務省の官僚だった柳田は、全国の農村を回るうちに民俗学的なものに関心を抱くように。そして遠野出身の学生だった佐々木喜善と出会ったことで生まれた本作は、佐々木が祖父から聞いたという遠野地方に伝わる昔話や民間伝承、怪談話などをまとめている。
親から子へと代々口承されてきたこれらの話は、いわゆるオチがなかったり、尻切れトンボだったりして、起承転結のあるわかりやすい物語に慣れている現代人にとって、肩透かしを食らうものも少なくない。それはそれでリアリティがあったりもするのだが、妖怪のスペシャリストによって漫画化された『水木しげるの遠野物語』は、こちらの想像力を補ってくれるところがありがたい。
遠野三山と呼ばれる早池峰(はらちね)山、六甲牛(ろっこうし)山、石上(※石神とも)山などに棲む異形の存在に出くわすのは、猟や山仕事、山菜採りなどを目的に、たったひとりで奥深くへ踏み入った者たちだ。男の前には「なぜこんなところに?」と思うほど美しい女が、若い女の前には手も足も出ないほどの大男が現れたりする。異界に迷い込んでしまった人々は、そのままさらわれて二度と家に戻れなかったり、無事に帰宅できたものの原因不明の病にかかってしまったり……。ただし災いをもたらす存在ばかりでなく、その後、裕福になったり、不思議な力を得て占いを始める人もいた。とはいえ「触らぬ神に祟りなし」というのが村人たちの正直な気持ちだったようで、たとえ遠回りになったとしても、怪しい場所には近寄らないほうがよいと考えられていた。
未知なる空間や生き物にまつわる話は、子どもたちに危険な場所や行動を教育するための方便だったりもしたのだろう。あるいは『遠野物語』に頻繁に登場するザシキワラシは、障害児を人目にさらさず育てていた因習が伝説のもとになっているともいわれるし、デンデラ野と呼ばれる場所には姥捨小屋があったとされ、口減らしのために家を出された老人たちが共同生活を送っていた。
人里離れたところに存在する異界は、俗世に生きる人たちが平穏に暮らすために作り上げた聖なる場所であり、忘れたい記憶を追いやった悲しみの詰まった場所なのかもしれない。だからこそ忘れてはいけないことが、これらの昔話には詰まっている。