日本の森や山には、日本書紀や古事記などの書物にも記された数多の神話が伝えられており、神話のあるところには、同じできごとを違った角度から伝える民話が多く伝えられています。災害が相次ぎ、否応なしに自然と向き合わずには生きていけず、差別問題も叫ばれる今だから。

そんな神話や民話を紐解きながら、物語の中に散りばめられた自然の中に神を見出す多様性ある日本古来のアニミズム的な信仰や暮らしの術を探究してみることにしました。

監修・解説:中村 真(Imajin)/編集・テキスト:佐藤 啓(射的)/イラスト:高橋裕子(射的)

黄泉の国:伊弉諾神と伊邪那美命、
男と女のラブゲームなおはなし

むかーしむかし、タイヨウのカミさまアマテラスがうまれるちょっとむかし、伊邪那美命はヒのカミさまカグツチをうむのにナンギしてしんでしまい、ヨミのクニへとさっていってしまったそうなのじゃ。
伊邪那美命をラブラブあいしている伊弉諾神は、じぶんのコどもでもあるカグツチをコロしてしまい、伊邪那美命をおいかけて、おいかけてヨミのクニ、「もういちどマイスイートホームでいっしょにくらさないか〜、セイ・イェス〜〜」と伊邪那美命にコンガンしたのじゃった。
すると伊邪那美命は、「ヨミのクニのディナーになれてしまったワタシは、もうもとにはもどれないわ。ワタシのチはもう、ジョウシツなアカワインよ。でも、やっぱりあなたがイトオしいから、ヨミのクニのカミにソウダンしてみる。すこしまっていて。でもそのあいだ、ワタシのスガタをノゾキミするのはダメ、ぜったい」とこたえたのじゃよ。

「ずっち〜な〜」そうこぼしながらもぜったいにノゾキコウイはしないとヤクソクした伊弉諾神じゃったが、まてどもまてども伊邪那美命がもどらないので、うっかりノゾキミしてしまったのじゃ。
するとそこにいた伊邪那美命はホラー系コスプレーヤーのようで、ベツジンのようにかわりはてておった。
カラダじゅうにウジがたかり、アタマにはオオイカヅチが、ムネにホノイカヅチ、ハラにはクロイカヅチがおる。まだまだおる、ホトにはサクイカヅチ、ヒダリテにワキイカヅチ、ミギテにツチイカヅチ、ヒダリアシにはナルイカヅチ、そしてミギアシにはフスイカヅチまで、ぜんぶで8しゅるいのライジンをマトうておったのじゃ。

「あなたはイナズマのように、ワタシのココロをひきさいた〜」とばかりに、ワイフのそんなかわりはてたスガタにおどろいた伊弉諾神は、スタコラサッサといちもくさんににげだした。
「ヤクソクしたのに、ハジをしりなさい、ハジを!」ヨミのクニのチュウシンでイカリをサケぶ伊邪那美命。ヨミのクニのオンナたちに、そのあとをおわせたのじゃ。
伊弉諾神はミにつけていたカヅラやクシをなげすててジカンをかせぎながらにげつづけ、さいごにはトカノツルギをふりかざしてにげ、モモのミをテシタのオンナたちにぶつけてなんとかにげきったのじゃー。

ホウホウノテイでやっとこさヨミのクニとこのヨのサカイメのヨモツヒラサカまでたどりつくと、なんとかセンニンリキでうごかせるようなキョセキでミチをふさいだのじゃ。
「こんなことするなんてワタシゆるせない。これから、このヨのニンゲンをマイニチ千人コロすことにするわ!」ユクテをふさがれた伊邪那美命がそうハキステルようにサケぶと、「それならボクは、マイニチ千五百ニンうむ!」と伊弉諾神。かつてのオシドリふうふによるフリースタイルダンジョンは、このものがたりのMVPかもしれんのぅ、おかげさまでニンゲンはふえつづけ、ハンエイすることになったのじゃよ。
そのあと、なんとかヨミのクニからこのヨへともどった伊弉諾神は、ミをキヨめるためにミズベでミソギをおこなったのじゃ。そのときにうまれたのが、アマテラスとツクヨミ、スサノオ、つまりはミハシラノウズノミコなのじゃが、それはまたベツのおはなし。

黄泉の国の解説

天照大神(アマテラス)、月読命(ツクヨミ)、須佐男命(スサノオ)という日本の神々の中でもよく知られる存在の誕生に繋がる、その祖神様としての伊弉諾神(イザナギ)、伊邪那美命(イザナミ)の物語は、母神である伊邪那美命が父神・伊弉諾神と共に様々な神様を生み出すその最後に、伊邪那美命が命をなくしてしまう話からスタートする。

他の神々はまるで人間の生理現象のすべてから生まれ出る世界感で表現されているが、火の神様だけは、普通の人間と同じように股の間から生み出される。出産の際、母である伊邪那美命は大やけど負い、黄泉の国とこの世との境界である黄泉平坂(よもつひらさか)までやって来て命を落とし、黄泉の国へ旅立ってしまうのだ。
黄泉の国へと旅立った伊邪那美命と無理やり会いに出かけた伊弉諾神が、「見てくれるな」というお願いをした伊邪那美命の黄泉の国での姿を見てしまい、混乱してしまう。その後、正気を取り戻してどうにか黄泉の国から逃げ出す、という構成になっている。
命ある世界へと戻る道々、追手の気を紛らわすために、カヅラや櫛、桃を投げ出し時間を稼ぎ(このくだりから、桃や櫛が魔除けになるという信仰が生まれた)、いよいよ黄泉からの出口に辿り着いた際、大きな岩で境界をつくり、夫婦神で最後の言葉のやり取りを残す。

驚くべきは、この段階においてもまだ新しい命を生み出すやりとりが行われていることである。さらに不思議なのが、命をなくした者たちの世界である黄泉の国を、まだ命を持っている伊弉諾神が訪れ、そしてそこから帰ってきたことだ。
妻である伊邪那美命は命をなくし、黄泉の世界における変化が描写されているものの、命からがら戻った夫の伊弉諾神は特段の異常がなく、「黄泉の国へ行ったので穢れてしまった」として、海で穢れ払いをおこなう流れが作られている。
それまで繰り広げられた神々の物語において、この最も血なまぐさい死の世界を舞台とした物語の後は、徹底した穢れ払い行うことで、それまで以上に大事な神々が次々と生まれていくのだ。

ところで、黄泉の国(死者)の世界の住人となった伊邪那美命、生きてなお黄泉の国(死者の世界)から戻ってきた伊弉諾神も、共に「いざな(う)」という音を持つ。この「いざな(う)」を「誘(いざな)う」と捉えると、伊弉諾神は「誘(いざな)キ」、伊邪那美命は「誘(いざな)ミ」。
「キ」は死者の世界に行っても死にはしない気持ちの「気」、「ミ」は死してその世界の住人となった実体や身体の「実」や「身」と受け止めると、話は理解しやすいかもしれない。
つまり、命とは「キ=気」と「ミ=実・身」が合わさって生まれるものであり、身を持つ伊邪那美命は黄泉の国で(身であるがために)腐ってしまうが、伊弉諾神は死者の世界においても死することなく、元の気を失う「気が枯れた」状況に追い込まれるわけだ。共に命に繋がる存在であり、「キ」と「ミ」を誘(いざな)う祖神として神話の中に登場している。今でも「ねえねえ、君さぁ」と使われる「君=キミ」こそ、命そのものの名称だったのかもしれない。

命を誘(いざな)う「気」が枯れてしまった伊弉諾神は「つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはら」で禊(みそぎ:穢れ払い)をした際に、これまでにないほどの神々しさをもった三尊神といわれる天照大神、月読命、須佐男命を生み出し、その後の神界観を作り上げていく。
この神話から今でも神社でお祈りを捧げるときに、神主さんはまず参拝者の方々に「修祓(しゅばつ)の儀」という穢れ払いをおこなうが、その際に必ず唱えられるのが「祓え詞(ことば)」であり、その冒頭は「かけまくも畏みイザナギノオオカミ…」から始まる由縁なのである。
汚れは穢れであり、「気が枯れる」ことに繋がる。みなさんが神社へお参りする前に手水舎で手を流すのは、命を誘う伊弉諾神の禊払いの神話から生まれた行動であり、その意味は汚(よご)れを落とすことではなく、もともとの元気を取り戻す行動なのかもしれない。

最後に、誘う「実・身」である伊邪那美命がお隠れ(なくなったこと)になった場所として、古事記では広島県庄原の比婆山を比定しているが、日本書紀では三重県熊野市の花の岩屋をそこだとしている。

※本稿は、『古事記』や『日本書紀』等に残された神話を基に考察した、一個人の見解であることをご了承ください。

解説:
中村 真(なかむら・まこと)●イマジン株式会社代表、尾道自由大学校長。『JINJA BOOK』『JINJA TRAVEL BOOK』著者で、自由大学の人気講座「神社学」教授を務める。自然信仰の観点から日本の神社や暮らしの中にある信仰を独自に研究する神社愛好家。信仰と学び、暮らしを軸にした地方活性化プロジェクトを全国各地で展開している。ima-jin.co.jp

佐藤 啓 (さとう・けい)
『Tank』『Spectator』などの編集、『ecocolo』などの雑誌の編集長を経て、現在は東京と岩手の二拠点で編集者として活動。ビフィタ職人を目指しながら、雑誌や書籍、広告の制作を生業としている。株式会社 祭り法人 射的 取締役棟梁。https://shateki.jp