ふしぎの杜で
# 12
天地開闢
2022.12.1

日本の森や山には、日本書紀や古事記などの書物にも記された数多の神話が伝えられており、神話のあるところには、同じできごとを違った角度から伝える民話が多く伝えられています。災害が相次ぎ、否応なしに自然と向き合わずには生きていけず、差別問題も叫ばれる今だから。そんな神話や民話を紐解きながら、物語の中に散りばめられた自然の中に神を見出す多様性ある日本古来のアニミズム的な信仰や暮らしの術を探求してみることにしました。

監修・解説:中村 真(Imajin)/編集・文:佐藤 啓(射的)/イラスト:高橋裕子(射的)

別天津神と神代七代のおはなし

むかしむかしのカミヨのもっとまえのむかし、テンもチもなんにもなくて、セカイはコントンとしていた。まるでウズをまいたようなセカイで、そこにはカミさまもいなかった。
それからとてつもなくなが〜いジカンをかけて、テンとチがわかれて、テンクウにうかぶタカマガハラに、アメノミナカヌシというカミさまがあらわれた。しばらくするとタカムスヒ、それからカミムスヒというカミさまもあらわれたが、このサンチュウのカミさまたちはヒトリカミだったので、すぐにかくれてしまった。

このとき、ダイチはまだまだドロよりやわらかくて、まるでみずにうかぶアブラミみたいだった。
それからまたなが〜いジカンをかけて、ドロのなかからまるでアシのはがめぶくようにイキイキとしたもののなかから、ウマシアシカビヒコジがあらわれた。つぎにアメノコトダチがあらわれて、このニチュウのヒトリカミもまたすぐにかくれてしまった。

アメノミナカヌシからアメノトコタチまでのゴチュウのカミさまは、天地開闢のときにあらわれたトクベツなカミさまで、「別天津神」とよばれているのじゃ。そのあとにヒトリカミのクニノトコタチとトヨクモノカミがあらわれて、すぐにまたかくれてしまった。

それからやっと、オトコカミとオンナカミがあらわれた。
まずはウヒジニ、それからいもうとのスヒチニがあらわれ、ふたりはメオトになった。
このメオトにつづいて、ツノグヒといもうとのイクグヒ、オホトノヂといもうとのオホトノベ、オモダルといもうとのアヤカシコネがつぎつぎにあらわれて、それぞれまたメオトになった。
そしてさいごに、ニホンのクニウミをするイザナギといもうとのイザナミがあらわれた。
これまでのカミさまはみんなしぜんにポンっとうまれてきたのじゃが、これからあとのカミさまはイザナギとイザナミ、ニチュウのカミさまからうまれた。そしてさいごにうまれたのが、サンキシンとよばれるアマテラス、ツクヨミ、スサノオのサンチュウのカミさまだった。

天地開闢の解説

日本の神話が語られる『記紀』(古事記/日本書紀)において、いずれも似通った構成で記される神代の天地開闢の段。以前、原初の神々の登場を宇宙の中心を定め、命を結ぶエネルギーの話として解説したが(https://hibi-ki.co.jp/fushiginomoride009/)、その後に生まれる神々の登場により、現代の暮らしに繋がる世界観が創造されていく様が語られている。

『古事記』において、天之御中主神(アメノミナカヌシ)、高御産巣日神(タカミムスビ)、神産巣日神(カミムスビ)の原初の三柱(さんちゅう:「柱」は、神を数える単位)の神々が登場した後、混沌とした世界に、まるで葦がピンと芽吹くような生き活きとした生命力が、宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂノミコト)と天之常立(アメノトコタチノミコト)の誕生で表現されている。

原初の神である天之御中主神から天之常立までの五柱を別天津神(コトアマツカミ)とし、天地開闢における宇宙および天界の存在を現している。別天津神の最後として登場する天之常立命は、文字通り「天界に常に立つ神々のエネルギー」を表現していると捉えると、その後に続く国之常立命(クニトコタチノミコト)は、「天に対する地に常に立つ神」の初発といえるのではないだろうか。

「地」は「大地」のことであり、我々の足もとに広がる地上といえよう。地上の創造における根源神として国之常立命が生まれ出た後、次に大地の豊穣を意味する豊雲野神(トヨクモノカミ)が誕生する。続いて宇比地邇(ウヒヂニ)/須比智邇(スヒヂニ)が生まれ出で、豊饒な大地より発生する形のない命の誕生を表現すると、続いて天地の境界を意味する角杙(ツノグヒノカミ)/活杙(イクグヒノカミ)、すでに生まれ出た大地が型成すさまをあらわした意富斗能地(オオトノヂノカミ)/大斗乃弁(オオトノベノカミ)が続けて生まれた。

天地が分かれ天の神々が見守る中、地上には大地がかたどられ、そこに淤母陀琉(オモダルミノカミ)/阿夜訶志古泥(アヤカシコネノカミ)が登場し、形のない命を人型につくりあげた。そして最後に生まれ出たのが伊邪那岐(イザナギノミコト)/伊邪那美(イザナミノミコト)であり、以後の神々の誕生はこの二柱の神によるものとなる。国之常立から伊邪那岐/伊邪那美までを神代七代(カミヨナナヨ)と呼ぶ。

何も存在しない混沌とした空間に、世界(宇宙)の中心を定め、命結すエネルギーが発生すると、葦がピンとたつ命が芽吹き、天界に常に立つ神が生まれる。その後は、同様に天に対する地に常に立つ神が現れ、天地がわかれ、大地が豊かに成長していく。
ここに登場した別天津神五代と神代七代の神々はすべてが単独神であり、他の神々から生まれ出たものではない。すべてが自ら生まれ自ら隠れていくのに対して、神代七代の最後に生まれた伊邪那岐/伊邪那美以降は、すべて二人の神からから生まれ出ることから、現在でもこの二柱を祖神様(オヤガミサマ)と崇め祀っている。有名なところでは、「お伊勢に参らばお多賀にも参れ お伊勢はお多賀の子でござる」という俗謡が残っているのは、天地開闢から始まる日本の神々の物語が古来、民間にも伝わってきたことを現しているのかもしれない。

このように紐解いてみると、今から1300年以上前に記された『古事記』において、宇宙創成から大地が生まれ出で、さまざまな命が誕生する物語を神々の登場になぞらえた当時の人々の想像力に頭が下がるばかりだ。当たり前だが、インターネットで調べればすぐに何でもわかる現代と違い、僕らの命に繋がる先人たちは、想像以上にクリエイティブであったことがうかがえる。

これまでさまざまな日本の神さまの物語や各地に伝わる伝承などを紹介してきたが、日本中にはまだまだ僕らの知らない伝承や伝説が残されている。日本神話においては、昔むかしの神々の物語を伝えながらも、実は現代の僕らの暮らしに見て取れるさまざまな現象を表現しているようにも思えてならない。

これまで掲載してきた各解説は正しいか正しくないかではなく、すべて個人の解釈として紹介してきた。そもそも『古事記』や『日本書紀』に書かれていることは絶対に正しいというような前提に立つとすべてが破綻してしまう日本の神さまの物語は、僕らの命に繋がる先人たちがなぜこれらの話を書き残したのか想いを馳せ、そして受け取った僕らが何を想像し創造していくのかが大事なのではないかと思う。

1300年以上前にクリエイトされた世界感をさらにクリエイティブに想像し守り伝えていくことが、現代の僕らが担う命の使命なのではないかと、いつもひとり妄想している。

※本稿は、一個人の見解であることをご了承ください。

解説:中村 真(なかむら・まこと)●イマジン株式会社代表、尾道自由大学校長。『JINJA BOOK』『JINJA TRAVEL BOOK』著者で、自由大学の人気講座「神社学」教授を務める。自然信仰の観点から日本の神社や暮らしの中にある信仰を独自に研究する神社愛好家。信仰と学び、暮らしを軸にした地方活性化プロジェクトを全国各地で展開している。ima-jin.co.jp

佐藤 啓 (さとう・けい)
『Tank』『Spectator』などの編集、『ecocolo』などの雑誌の編集長を経て、現在は東京と岩手の二拠点で編集者として活動。ビフィタ職人を目指しながら、雑誌や書籍、広告の制作を生業としている。株式会社 祭り法人 射的 取締役棟梁。https://shateki.jp