ふしぎの杜で
# 7
大多鬼丸
2021.4.1

日本の森や山には、日本書紀や古事記などの書物にも記された数多の神話が伝えられており、神話のあるところには、同じできごとを違った角度から伝える民話が多く伝えられています。災害が相次ぎ、否応なしに自然と向き合わずには生きていけず、差別問題も叫ばれる今だから。

そんな神話や民話を紐解きながら、物語の中に散りばめられた自然の中に神を見出す多様性ある日本古来のアニミズム的な信仰や暮らしの術を探求してみることにしました。

監修・解説:中村 真(Imajin)/編集・文:佐藤 啓(射的)/イラスト:高橋 裕子(射的)

陸奥の大多鬼丸のおはなし

むかしむかし、カミサマたちのじだいからずいぶんとたって、カンムテンノウがこのヨノナカをおさめていたころのことだっぺよ。ジゴクダっつうタンボでおなかがおおきくなったオナゴがせっせせっせとはたらいてだら、まだサンケづいてもないのに、そのままタンボであかんぼうをうみおとしてしまったんだと。

あれまあれま、おどろいたことにそのあかんぼうはオニのこどもだったっけど。ツノがはえてたんだべ。それからそのあだりのこど、「オニがうまれたタンボ」ってこどで、鬼生田ってナマエがついだんだべない。

オニのこは、ナナツぐらいになるど、そりゃもうリッパなカラダになっでなぁ、ミのタケばゴシャク(150cm)ぐれぇになって、ツノもそりゃあリッパになってたんだべ。

したらば、オニのコはイエのヒトやムラの人にランボウしだりワルサしたりするもんだがら、オヤやムラのシュウは「オニのコは、コロしちまうべー」ってソウダンしでたんだど。ミミもいいのが、オニのコはそれをきいちまったんだべない、そのばんにどこかにスガタくらませちまっだんだ。

ずいーっとツキヒばすぎで、そのオニのコが大多鬼丸とタイソウななまえを名乗っでオオアバレしでるど、鬼生田のムラにもきこえできたんだど。なんでも、オオタキネっつどごにスミついで、テシタまでヒキつれで、ミナミオウシュウのタイショウになったどーってな。そんなウワサがひろまっで、ムラのあたりイッタイでは、大多鬼丸を「オニのコが、オニになっちまっだ」つって、そりゃもうコシぬがしちまったんだど。

そんなウワサはすぐにキョウトのほうにもきこえできて、カンムテンノウはサカノウエノタムラマロっつうクッキョウナなショウグンに「大多鬼丸セイバツにいくでおじゃる」つって、メイレイしたんだっぺよ。

もどもどサカノウエノタムラマロもコオリヤマのあだりでうまれだヒトで、コオリヤマにはタムラっつうチメイがおおいんだけっども、そのハナシはまだこんどすっぺし。

さてど、そんなこんなでサカノウエノタムラマロはオオタキネで大多鬼丸どそれはそれはハゲしぐたたかって、大多鬼丸のヘイタイたちをことごとぐ、ウちホロボしちまっだ。だども、しんじまったものだぢをテンケンしても、大多鬼丸どテシタどもは、みつからなかったんだど。

それからシバラクすっど、「大多鬼丸はキシュウのクマノににげだらしいどーーー」っつうウワサが、鬼生田のムラのシュウだぢのあいだでさわーっとひろがったんだど。

そしてな、鬼生田のシュウがクマノゴンゲンにおマイりするど、オニのタマシイがふるさとなつかしんで、おマイりしにいったヒトかえさなぐなったんだどよ。それで鬼生田のシュウはクマノサンパイしなぐなったんだっぺ。

そんなウワサをきいだサカノウエノタムラマロは大多鬼丸のブユウをたたえでおテラをたてで、ムラのシュウをアンシンさせたんだどさ。

「大多鬼丸」の解説

日本各地に伝わる「鬼」にまつわる伝承や神話を、表側からではなく鬼と呼ばれた人々の立場から考察してみると、歴史として記された内容とは正反対の言い伝えが残されていることに気がつくことがある。

この、「鬼が生まれた田んぼ」の話を初めて耳にし、そしてそれが地名となって今なお残っている名称だと知ったとき、俄然、現地に残る他の話、つまり裏面への興味が湧いてきた。

今回紹介したのは、福島県郡山市の「鬼生田」という地域にある廣度寺(コウドジ/曹洞宗)に伝わるものだ。田んぼから生まれた鬼を“大多鬼丸(オオタキマル)”と呼び、まるで悪党の頭領のように表現しているが、同時に廣度寺は、奇妙なことにもうひとつの物語を伝えている。そしてそれは、廣度寺そのものの建立由来ともなっているから、驚くばかりである。

その話では、大多鬼丸が蝦夷の大将として紹介されている。「蝦夷」とは大和朝廷側が自分たちに屈しない「まつろわぬ民」であるアイヌ勢力を蔑称で呼んだ言葉とされているが、その大将である大多鬼丸が田んぼから生まれたという誕生譚は、紹介した民話と同様だ。

しかし、物語の中でそれに続く大多鬼丸の立ち位置はガラリと変わっていく。彼は成長するにつれて武勇に優れた勇敢な統治者となり、地元の人々は畏れ敬う意味で「鬼(のような強さをもつもの)」と呼んでいたと伝えている。

大多鬼丸は南陸奥の覇者となるほどの権勢を誇ったと伝わっており、その力があまりに強かったばかりか、その噂は当然都に伝わり、朝廷は蝦夷(大多鬼丸)を滅ぼすため、時の天皇である桓武天皇は801年、坂之上田村麻呂に征伐を命じることとなる。

結果的には、先に紹介した伝承と同じ道をたどり、大多鬼丸軍は滅び、残党は紀州の熊野に逃げ落ちたと伝えているのだが、さらにここからが面白く、大多鬼丸を滅ぼした坂之上田村麻呂は敵対した大多鬼丸の武勇を讃え、また大多鬼丸を支持していた地元の人々の心を安堵させるために、廣度寺を建立したのだそうだ。

さらに地元の人々も大多鬼丸を偲び、「田から生まれた鬼」を神様そのものと捉え、鬼生明神(キショウミョウジン)として祀り始めた。廣度寺の境内に今も残る鬼生明神堂が、それである。

ひとつの寺に伝わるふたつの話には、共通点もありつつ真反対にも解釈できる物語がそのまま残されていることに、朝廷に従いつつも、地元の英雄を偲ぶ鬼生田の地に暮らす人々の心のありようがうかがえる。

この鬼生田の他にも東北地方を中心に点在する坂上田村麻呂が征伐に訪れた地域には、表側の信仰として坂上田村麻呂自身を神と崇めて祀る「田村信仰」が残っているが、同時に田村麻呂により征伐された側を祀る信仰が残っているところが多いのも興味深い。

また、古来お米を作る水田は誰にとっても重要な生活基盤であったはずで、「宝物」という言葉も「田んぼからいただくもの」から発生したとも言われていることや、物語の最後に登場する熊野の地は、昔から蘇りの地とも認識されてきたことも興味の対象だ。

「鬼」という文字があてられているがしかし「田んぼから生まれた存在=宝もの」であることや、また蘇りの地として認識されていた熊野に逃げていったという話が残されている部分に、土地の人々の“大多鬼丸”への想いと祈りを感じてしまうのは私だけだろうか。


解説:
中村 真(なかむら・まこと)●イマジン株式会社代表、尾道自由大学校長。『JINJA BOOK』『JINJA TRAVEL BOOK』著者で、自由大学の人気講座「神社学」教授を務める。自然信仰の観点から日本の神社や暮らしの中にある信仰を独自に研究する神社愛好家。信仰と学び、暮らしを軸にした地方活性化プロジェクトを全国各地で展開している。ima-jin.co.jp

佐藤 啓 (さとう・けい)
『Tank』『Spectator』などの編集、『ecocolo』などの雑誌の編集長を経て、現在は東京と岩手の二拠点で編集者として活動。ビフィタ職人を目指しながら、雑誌や書籍、広告の制作を生業としている。株式会社 祭り法人 射的 取締役棟梁。https://shateki.jp