日本の森や山には、日本書紀や古事記などの書物にも記された数多の神話が伝えられており、神話のあるところには、同じできごとを違った角度から伝える民話が多く伝えられています。災害が相次ぎ、否応なしに自然と向き合わずには生きていけない今だから、そんな神話や民話を紐解きながら、物語の中に散りばめられた自然の中に神を見出す日本古来のアニミズム的な信仰や暮らしの術を探求してみることにしました。

監修・解説:中村 真(Imajin)/編集・文:佐藤 啓(射的)/イラスト:高橋裕子(射的)

両面宿儺(リョウメンスクナ)のおはなし

むかしむかし、ニントクテンノウのころのことじゃった。
ヒダノクニのデワガヒラのやまがくずれ、ホコラがあらわれた。
そのなかにおったのは、あたまのぜんごにかおがふたつ、テアシがよっつづつある、宿儺(スクナ)というなまえの2めーとるちかいオオオトコじゃった。

よっつのウデをたくみにつかっていちどにふたはりのゆみをいり、よっつのアシでうまよりもはやくかけめぐる、それはそれはくっきょうなおとこだったそうじゃ。
宿儺はサトのひとをくるしめていたドクヘビやキシン、リュウジンをたいじして、あっというまにヒダノクニをおさめるようになっていったのじゃった。

「おそろしいバケモノをたいじするでおじゃる」
そういってニントクテンノウは、いくさじょうずなタケフルクマに宿儺たいじのメイレイをして、ヒダノクニへグンをすすめさせたのじゃった。

そのしらせをきいた宿儺は、タカサワヤマをじんちにしてタケフルクマのグンとみごとにたたかった。じゃが、しだいにいくさじょうずのタケフルクマのグンにおされて、宿儺のテシタはちりぢりになり、宿儺もねじろのデワガヒラにのこったテシタとにげこみ、さいきをはかった。

宿儺をおうタケフルクマじゃったが、やまにふなれでナカツハラのあたりで宿儺をみうしなってしまった。そこでホコラをたて、ハチマンさまにいのった。
すると、ホコラからいちわのハトがまいあがり、きたのやまのかなたへととびさっていったのじゃった。
そのホコラは、いまでもシモハラハチマングウとしてヒダノクニにのこっておる。

やまをこえ、たにをこえ、タケフルクマたちはやっとデワガヒラのふもとにたどりつくと、けわしいイワヤマのちゅうふくに宿儺のイワヤをみつけたのじゃ。

するとイワヤのまえには、よっつのウデでふたつのユミをかまえ、よっつのメをギラギラひからせる宿儺と、イワやタイボクをよせあつめたテシタたちがあらわれた。
りょうぐんはしばらくのあいだピタリともうごかず、ピンとしたくうきがはりつめた。

「わーっ!」というかけごえとともにタケフルクマのグンがやまをのぼりはじめると、テシタたちはイワやタイボクをなげおとし、グンのヘイシたちはいわかべからころげおちる。
宿儺はふたつの弓をいり、ときにはおたけびをあげながらじんちをかけめぐり、テシタたちをこぶした。
そのようすは、ダイチをとどろかし、カゼをおこさんばかりにすさまじかったそうじゃ。

「ままよー」
れっせいをはねかえそうと宿儺とのイッキウチになのりをあげるタケフルクマ。
ふたりがケンをまじわすするどいオトは、サトまでひびきわたったそうじゃ。
そのオトにテシタもヘイシもあぜんとみまもるだけじゃった。

ふたりのケンははげしくヒバナをちらし、なかなかしょうぶがつかなかった。
どっこい、スキをみつけたタケフルクマのケンが、ついに宿儺のムネをついたのじゃ。
さすがの宿儺もどうとくずれおち、いきたえた。

ながいときをへて、ヒダノクニしゅっしんのエンクウというソウが両面宿儺のモクゾウをほった。宿儺はヒダノクニをきりひらきサトのひとをまもったエイユウとしてつたえきいてきたエンクウがほった両面宿儺像は、けわしくもやさしいカオをしておるそうじゃ。
そのブツゾウは、いまでもセンコウジにつたわっておる。

「両面宿儺」の解説

「飛騨には“悪さばっかりする暴れん坊=両面宿儺”という名の化け物がいるので、武振熊(タケフルクマ)という武将が退治した」
これが『日本書紀』に記された両面宿儺にまつわる物語だ。

しかし、岐阜県内の現地には「悪鬼や毒竜を退治して民衆を救った」「農業を指導した」など、日本書紀の宿儺像とは相反する善行がいくつも伝えられ、地元では英雄視されている。また、飛騨地方にいくつかの寺を開いたとも言われており、高山市の千光寺や善久寺では「両面宿儺像」が信仰対象として祀られている。(江戸時代に同地出身の仏師・円空が彫った「両面宿儺像」も、勇ましくも優しげな、実にいい顔をしている)

両面宿儺の神話も、いわゆる大和朝廷vs地元豪族の構図で解釈できるのではないだろうか。

同様の構図における物語の登場人物の多くは、勝者側の記録では「鬼」と表現されることが多いが、飛騨においては、「ひとつの身体にふたつの顔、4本の手足が生えている」と、その描写がほか地域よりも妙に具体的であることに、僕はとても惹かれる。

日本民族は、大きく縄文系から弥生系と呼ばれる民族の変遷を辿ってきたと言われるが、最近のDNA研究により、これまで証明不可能とされてきた民族の成り立ちが徐々にわかり始めている。

弥生系の人々がこの国に入植してくる過程において、現地との折衝を「天孫降臨」という神話として、のちの勝者である弥生系の歴史として残してきたが、それらの伝承の中で、蔑称の与えられた人々(鬼、化け物など)は、もともとの現地住人、いわゆる縄文人だろうと言われている。縄文系のDNAがどの地域に多く残っているのかの研究が東大や筑波大の物理学者によって積極的におこなわれ、2000年以降、発表されている。

それら研究によると、北海道、東北、飛騨、美濃、首都圏、北九州、宮崎、沖縄に多く見られるという。飛騨と美濃は広く同じ地域と考えることができ、いわゆる日本の中部山岳エリアだ。

稲作文化を主体とする弥生系の人にとっては海から近い平野こそが理想の地で、日本列島の中部、さらにその山岳地帯の奥地にある飛騨は稲作文化に適さないので、侵略にくるにはある程度の時間の流れが必要だったのだろうというのは想像にかたくない。

同じDNA をもつ人種が近場でのみ生命の継承をしていくと、おのずと血は濃くなり、場合によると、現代的な表現としての「ギフテッド」「タレンテッド」を産むことにもつながる可能性が高くなると言われており、その特徴を表す妙に具体的な記述を見ていると、もしかすると両面宿儺もまたそのひとりだったのかもしれないと思えてくる。

日本では、古来より障がい者が生まれた家は「宝物を授かった」と受けとめられてきた。その存在と共に生きることで、健常者が感じえないさまざまなことを感じ、人の痛みを知ることにもつながる。彼ら、彼女たちは、元気に生きてくれているだけで周りを幸せにできる存在であり、時に神格化されたりしながら大切な存在とされてきた。

障がい者に対してあまりに偏った見解を持つ人が目立ち、残忍な事件が起きるこのご時世。宿儺の物語を通して、現代をこの国で生きる者として改めて「宝物」に対して思いを馳せたいと思う。

※本稿は、飛騨地方に伝わる伝承に現代の研究内容を重ねた、想像力逞しい一個人の見解であることをご了承ください。

Profile
中村 真(なかむら・まこと)●イマジン株式会社代、尾道自由大学校長。『JINJA BOOK』『JINJA TRAVEL BOOK』著者で、自由大学の人気講座「神社学」教授を務める。自然信仰の観点から日本の神社や暮らしの中にある信仰を独自に研究する神社愛好家。信仰と学び、暮らしを軸にした地方活性化プロジェクトを全国各地で展開している。ima-jin.co.jp

佐藤 啓 (さとう・けい)
『Tank』『Spectator』などの編集、『ecocolo』などの雑誌の編集長を経て、現在は東京と岩手の二拠点で編集者として活動。ビフィタ職人を目指しながら、雑誌や書籍、広告の制作を生業としている。株式会社 祭り法人 射的 取締役棟梁。https://shateki.jp