日本の森や山には、古事記などの書物にも記されたたくさんの神話が伝えられており、神話のあるところには、同じ出来事を違った角度から伝える民話が多く伝えられています。災害が相次ぎ、否応なしに自然と向き合わずには生きていけない今だから。
そんな神話や民話を紐解きながら、物語の中に散りばめられた自然の中に神を見出す日本古来のアニミズム的な信仰や、暮らしの術を探究してみることにしました。
鬼八のものがたり
むかしむかし、カミサマたちがこのよのなかにくらしていたころのことじゃった。
タカチホはフタカミヤマのチチガイワヤに、鬼八(キハチ)というワルいオニがすんでおった。
あちらこちらをあらしまわってはサトのモノをくるしめ、ヤマをおりてはアララギのサトのオニガイワヤにすみつき、ウノメヒメをむりやりとじこめてツマにしておった。
そんな鬼八があばれるタカチホに、ミケイリノミコトがひょんなことからまいもどってきたのじゃった。
あるひ、ミコトがゴセガワのほとりにあるシチガイケをあるいていると、スイメンにうれいがおのウノメヒメのすがたがうつっておった。「どうなされたのかな?」とたずねると、「鬼八というものにムリヤリにつれてこられて、かなしんでいるのでおじゃる」とシクシクとこたえるヒメ。「それはなんぎですな」と、ミコトは鬼八をセイバイすることにしたのじゃった。
さっそく、ミコトはあまたのケライをつれてチチガイワヤをせめた。あしのはやいことでしられる鬼八は、ヤマをこえタニをこえにげまわったのじゃが、フタカミヤマにもどろうとしたところでついにたおされてしまった。
どっこい、鬼八のマリョクはそれはそれはつよいもので、ナキガラをそのままうめるとイチヤにしてよみがえってしもうた。「ではこうしてくれるわ」と、ミコトは鬼八のカラダをみっつにきりわけてベツベツのところにうめたところ、もう鬼八がよみがえることはなかったのじゃ。
そのバショは、いまでも「クビヅカ」「ドウヅカ」「テアシヅカ」としてタカチホにのこっておる。
どっこい、そのごサトにはハヤシモがふり、サクモツがそだたなくなってしまったのじゃ。サトのものたちは「鬼八のタタリじゃー」とおそれ、イレイのマツリをひらいた。するとシモがおりるのはおそくなり、サクモツはよくそだつようになった。これがタカチホジンジャのシシカケマツリになったのじゃ。
ミケイリノミコトにたすけられたウノメヒメはミコトのキサキとなり、8にんのこをうんだ。そしてタカチホでいまにつづくジッシャダイミョウジン(ミコト、ヒメをくわえた10にんのカミ)としてサトのものからふかいシンコウをあつめておるのじゃ。
「鬼八のものがたり」の解説
基本的に神話や歴史は勝者が編纂し、自らの施政の後ろ盾として有効に使えるように書き換えていくものだ。大抵が大和側の侵略者と縄文にルーツを持ち狩猟採集民として長きに渡って独自の政治体系・ライフスタイルを確立してきた両者の間で繰り広げられたせめぎ合いが基になっており、結果今日に至るような大和朝廷側の神話が領地内でより多くの人に伝えられ、さらにそれを基に自らの行いを肯定する歴史書として受け継がれてきた。
しかし、神話が伝わる地にはさまざまな民話が伝承され、その物語は逆の立場からの視点を主として描かれているものが多く、その内容も異なることが多い。
例えば鬼八伝承は、今回取り上げた高千穂(タカチホ)のほかに阿蘇でも語り継がれている。
阿蘇の鬼八は阿蘇神社主神の健磐龍命(タケイワタツノミコト)の家来という設定で、命が阿蘇の往生岳から遥か彼方の的石へ矢を射る。鬼八はその矢をとってくる役目だ。100本目の矢を手抜きして足の指でつかんで投げ返した。これに怒った命は逃げる鬼八を高千穂まで追っかけて殺した。
殺された鬼八は命を恨んで阿蘇谷に霜を降らす。霜には弱い農作物が打撃を受けてしまい、困った命は鬼八の為に霜神社を創り、毎年「火焚き神事」をして鬼八の霊を暖めている。ここには、祟りなす神とはいえ主人にすら悪戯をする、どこか憎めない存在として登場する。
一方、今回取り上げた高千穂に伝わる鬼八伝承では、鬼八は地方一の豪族の親分として語られるのではないか。自分で鬼の岩窟の隠れ家を持ち里人を襲うので、最後に鬼八は三毛沼命(ミケイリノミコト/神武天皇の兄)に殺される。その三毛沼命を祀っているのが高千穂神社だ。
高千穂町の高千穂神社と、五ヶ瀬町の三ケ所神社には三毛沼命と鬼八の彫刻ある。拝殿の角に、高さ一間ほどの三毛沼命が鬼八を踏みつけているなどというもので、どちらも同じつくりだ。熊本(阿蘇)には、そのような造形物は残されていない。これにより想像できるのは、鬼八の存在を押さえつけ退治をした、ものとしての表現ではないか。
また鬼八の死体は数か所にわけて埋めたとあるが、主に池に埋めたという話が残っている。ということは、高千穂神社周辺にあるいくつもの水神信仰の祠なども、もしかすると鬼八の鎮魂のためなのかもしれない、と思えてしまう。大枠では鬼八は3つに分けられ埋められたとの話が伝承として残っているが、実は八つに分けられ埋められたという説もささやかれ、とくにそれは高千穂神社を取り巻くような配置であり、これこそ鬼八の祟りを抑えるいわゆる結界のようなものではないか、とも言われている。
同じ鬼八伝承の残る阿蘇ではやんちゃな存在が、高千穂においては、なぜそれほどまでに祟りなす存在として恐れられたのだろうか。もしかすると、反対に実は鬼八が地元で慕われる存在だったのではないかと思わざるをえない。なぜなら、祟りなす神として祀られているということは、その存在に対しなにがしかの思い、つまり何かしてしまった側の人間が後の世に残ったからこそ、何かの現象に対して、「これは〇〇の祟りじゃー」と思うわけだ。祟りを抑えるために神様として祀り上げる、というのは日本全国の神社やお寺の創建理由になっている。
東北の有名古社の創建は、ほとんどが東北攻めした坂上田村麻呂を主神とするが、そこはほとんどアイヌの聖地であり、必ずと言っていいほど、アラハバキ(アイヌの神)を摂社や末社、時には客人神として祀り上げている。天満宮、天神様でおなじみの菅原道真も同様だ。
災いを抑えるために悪鬼としてとらえられがちな鬼八ではあるが、高千穂の人にとっては鬼八というものはなじみの深く、その存在はどこか愛されるキャラでもある。だからこそ、いくつもの名所が今でも残されているのではないだろうか?
Profile
中村 真(なかむら・まこと)●イマジン株式会社代表、尾道自由大学校長。『JINJA BOOK』『JINJA TRAVEL BOOK』著者で、自由大学の人気講座「神社学」教授を務める。自然信仰の観点から日本の神社や暮らしの中にある信仰を独自に研究する神社愛好家。信仰と学び、暮らしを軸にした地方活性化プロジェクトを全国各地で展開している。ima-jin.co.jp