静岡県森町にあるマウンテンバイクパーク「ミリオンペタルバイクパーク」。年間を通して楽しめるパークは多くの人に愛され、県内外からたくさんの人が訪れています。パークがある山を所有しているのは〈森町森林組合〉の組合長・甚沢万之助さん。先祖から引き継いだ山の管理について考え抜いた半生について語ってもらいます。ミリオンペタルバイクパークの記事はこちら
自分の信じた森づくりを貫く
バイクパークのコースとなっている万之助さんの所有林は、山の中ではあるものの比較的地形が平坦で歩きやすい環境にあります。その林内を見てみると針葉樹から広葉樹まで、幅広い樹種が生育しています。また、ひざ丈くらいの若い木があれば、電柱の倍ほどの高さがありそうな大きな木が育っていたりと、バラエティ豊かな森林であることに気がつきます。これまでどのように管理してきた森なのか、万之助さんに現地を案内してもらいました。
「ここの森は斜面が緩やかなので、シイタケの取り場としてずっと利用してきました。うちの山では、シイタケの原木は生えている木を切って確保していました。切った木が自然と大きくなったときにまた切って、という感じで決まった区画をいくつか順繰りと伐採していたので、ある程度広い面積の土地を利用してシイタケ栽培をしていたわけです。パークに入るまでの道も、もともとはシイタケを取っていたころに作った作業道で、そういう地形なんかをバイクコースの一部として使っているみたいです」
「私の山にはモミの木、シデの木、コナラ、スギやヒノキなど、いろんな木が生えています。今は里山近くで、こういった広葉樹の山っていうのはほとんど見なくなりました。戦後の昭和35年以降の拡大造林で、全国一律に広葉樹の山を切り潰して、みんなスギやヒノキを植えちゃったじゃないですか。当時は材木がめちゃくちゃ高くて、お金になるって言って植えていましたけど、今は全くお金にならないのが現実です。ちなみに、ここに生えているスギやヒノキなんかはみんな天然木で、植えた木ではありませんよ」
戦後の木材需要に対応するため、広葉樹の天然林をスギやヒノキなどの針葉樹に植え替えた林業政策が拡大造林です。当時はあたり前のように全国で進められた政策でしたが、万之助さんは当時から政策に懐疑的な姿勢を持っていたといいます。
「今でこそ多様性とかって言うけれど、それこそ昭和40年代なんて、植えよ植えよ、増やせよ増やせな時代でね。広葉樹がどうとか生態学的にどうとかそんなもの関係ない、ってそういう時代でした。でもね、自分もいろんなところの山を見に行ったり話を聞いたりする中で、山の本当の姿って何だろう、って考えるようになったんです。それで、スギやヒノキばかりなのが山の本当の姿じゃないだろうって思ってね」
万之助さんは山の本当の姿について考え、先祖から引き継いだ山に自然に育った木を、長い年月をかけて育てていくことに注力します。今も万之助さんの森林には、木材として流通させるのに十分なサイズの木が多く育っていますが、安易に伐り倒すことはしません。
「このあたりに生えてるスギやヒノキなんかは胸高周囲で3mとか、それ以上の大径木に育てたいなって思ってるんです。何でかっていうと、今、日本で一番足りないのはスギやヒノキの大径木だからです。神社仏閣を建てようとしても、太い木がないわけですよ。国は50年や60年で切るっていうようなことを進めてますけど、これからもっと太くなる、まだやっと成年に達したか達さないかぐらいの木を早いとこ切って植え替えるなんて、もうとんでもないこと言うなぁ、と個人的には思っています。今、出せる木を全て切ってしまえばしばらく育ちはしないんですから」
万之助さんの森づくりを象徴する木として、「ヤマザクラ」の木を紹介してもらいました。高さ20mを超えるようなこの木は、ミリオンペタルバイクパークのシンボルツリーでもあります。
「これが一番のメインのヤマザクラです。100年以上は経ってるでしょうね。これだけ太くなれば、売ろうかと思えばすぐ売れるよ。だけど売ってしまったら、もう100年経たなきゃなかなかこういう木は育たないじゃないですか」
どこの山を見てもスギやヒノキばかりだった時代に、自分が信じる森づくりを貫いた万之助さん。自身がこれまでに見てきた、たくさんの山と比較して感じる自分の山の希少さ、素晴らしさを話してくれました。
「私の自慢はこの広葉樹の山です。四季折々の変化がいろいろあるし、種類もたくさんあるし、それが生態系を維持しているわけです。今、鳥も鳴いているけどさ、スギやヒノキだけじゃ生き物も限られちゃうからね。こういう山は貴重だと思うし、次の代に残していかなきゃいけないと思っています。この山の下の方には150年を超えるくらいのスギの木もあるけどもね、そんなの自慢したって、150年や200年ぐらいの山は他所にもあるだろうしね。だけど、こういう100年を超えるような広葉樹の山って、どこにでもあるわけじゃないから自慢の山です」
バイクパークができたことで、今まで山に訪れなかったような人も、県の内外を問わず訪れるようになりました。視察の希望も多いようで、その際は万之助さんが山についての考えを展開することもあるそうです。「来てくれた人に、これはこうだ、あれはこうだって、半分ストレス発散のためにやっていますよ(笑)」と語る万之助さんですが、その内容はご自身のこれまでの経験と知識に裏打ちされた、非常に引き込まれる話ばかりです。続けて、今後の森林空間の活用についても、万之助さんの考えていることを教えてもらいました。
「これからの時代、スギやヒノキで食えるかっていうと、ますます厳しくなると思うんです。人口減少になるし、空き家ばっかり増えて、住宅は当然減っていくし。そうなると、拡大造林で植えた全国1000万ヘクタールのスギやヒノキはどうするの、って言いたくなるんだよね。そういう意味で、これからはこういう森林空間の利用を拡大して、いかに生態系を維持していくか。そういう方向に持っていく必要があると思っています。私の場合は、先祖がこうやって山を残してくれたおかげでそれがやれる。結局は人の言うことを真に受けてそれに乗っかるだけではダメでね、よくよく吟味してからやらないと大変なことになる。そういうことだと思いますよ」
万之助さんはこれまでも、広葉樹の森づくりを様々な人に訴えかけてきました。過去には、バカげた話だと一笑に付されたこともあったそうですが、「自分のやれることを一生懸命やればいい」と、自分が信じる森づくりをひたむきに進めてきました。そうした活動が現在になり実を結び、多くの人に愛されるミリオンペタルバイクバークが誕生したのです。
石油文明から木材文明へ
時代の転換を見据える
現在は、自身が所有する200ヘクタールの山林を管理しながら森林組合長として林業に携わる万之助さんですが、その人生は林業一色というわけではありませんでした。キャリアの始まりは材木問屋にさかのぼります。
「フォークリフトもろくに使えない時代でね、体を鍛えて材木を担いで、内地材に外材、南洋材からソ連材から米材から、みんな触りましたよ。材木を肌で感じ取るっていうのはなかなかできない、本当に貴重な経験でした」
22歳から8年間材木問屋で働いた後は、家業のシイタケ栽培を継ぐ形で実家に戻ります。森町という地域は歴史的にシイタケ栽培が盛んな地域ではなかったそうですが、どういった経緯でシイタケ栽培が始まったのでしょうか。万之助さんで6代目になるという甚沢家のルーツを聞かせてもらいました。
「私の先祖は、江戸時代に大日山金剛院という森町のお寺に勤めていました。今でいう社内貯金をしていたみたいで、自分の給料を全部お寺に預けて、退職金として山をもらったそうです。お寺って参詣者が多いじゃないですか。働く中で情報としていろんな人の話を聞いて、それで将来シイタケ栽培をやろうというふうに考えたんだと想像しますよ。その後、栽培の勉強ということでシイタケの先進地の九州に出稼ぎに行ってるんです。お金を貯めて担いで帰ってきた、そういう話を親から聞いています」
こうして甚沢家では、お寺からもらった山を利用してシイタケ栽培と林業で生計を立ててきました。跡を継いだ万之助さんも20年以上シイタケ栽培に従事していましたが、今から約20年前に転機を迎えます。平成10年代半ばにかけて、中国から安価なシイタケの輸入が本格化したのです。このままでは商売が厳しくなると判断した万之助さんは、シイタケ栽培を辞める判断をし、仕事をお茶の栽培にシフトしていきます。また、当時は既に木材価格の低下が進んでおり、林業についても森林を維持するのが精一杯だったと振り返ります。
その後は平成27年に現職である森町森林組合長に就任した万之助さん。組合長として働く中で、森林の厳しい現状を目の当たりにしてきました。
「今、森林は負の遺産として見られてるよね。組合長をやっていても売りたい、辞めたいって言う人がとても多いです。昔、ある人が言ってました、『こんなもの博打だ』って。全くそうだと思いますよ。50年も先の木の値段なんてわかる人はいないんです。経済のよくわかる人は、林業みたいなことやる人はいない、投資をしないよ、って言うわけです。僕もその通りだと思うの。ただね、先祖が血でもって繋いできているもんだから、やめるわけにはいかん、と思っているんです」
これまでの万之助さんのキャリアからは、長年家業として続けたシイタケ栽培を辞めてお茶の栽培にシフトしたり、林業以外の森林の活用を早いうちから考えていたりと、常に時代の先を見て行動している様子が伺えます。そうした考え方の原点はどこにあるのでしょうか。万之助さんに訊ねてみました。
「材木問屋のときの経験は大きいです。いろんな会長や社長から話を聞いていく中で、ある社長から『自分が太陽の下にいたいと思ったら、太陽の移動と共に自分も動いて、変わっていくしかないんだよ』って言われて。そうだよな、日が暮れていけばそのうち太陽は西に行っちゃうよな、って思ってね。未だにそういうことが頭に残ってます。いい指導者に出会えたりね、いい同僚とか先輩に会えるっていうことは、人生で一番幸せなことだと思いますよ」
理想の森づくりについて考えながらも、時代に合わせ、太陽と共に動いてきた万之助さん。現在は負の遺産として受け取られがちな森林ですが、これからは明るい未来が待っているといいます。最後に、万之助さんが描く森林のビジョンを教えてくれました。
「今、状況が悪いと、これが永遠に続くように思うけども、決してそんなことはないと思う。明治以降150年ちょっと経つけれども、その間にも昭和の戦争であったり、経済復興であったりと、そういう中でたくさんの変動があったわけです。今はダメでも、将来的には必ず山としての価値も出てくると思うんですよ。僕は18世紀の産業革命で作られた、いわゆる石油文明が今の時代だと思うんです。だけど、ナノファイバーであるとか、リグニンであるとか、そういうのが利用できるようになれば、今度は石油とかプラスチックとかが木材に変わってくる。この石油文明が木材文明に変わる。そういう時代がくることを夢見ています。私が生きてる間にはならんと思ってますがね。今、その森林を持っているということは、大事にしないといけないし、お金さえあればもっと増やしたい。宝くじでも当たらんかなと思ってます。10億円が当たれば、今なら森町の全部の山買えるじゃないですか。半分冗談みたいな話ですけどね(笑)」
「50年先のことはわからない」という言葉は、森林だけでなく、社会全体にも当てはまると、万之助さんの話を聞いて感じました。経済合理性や発展だけを追い求めた結果、現代社会は解決の糸口が見えない多くの社会問題に直面しています。これらの課題を前にして、人によっては不安に圧し潰されそうになることもあるでしょう。そんな時は一度立ち止まって、今、自分が持っている「大切なモノ」を見つめ直してみましょう。社会の行く末は誰にも想像がつきませんが、それぞれが思う「大切なモノ」を忘れずに行動を続けていれば、そこまで悪い未来が訪れることはないのではないでしょうか。
「そんなのは理想論だ!」と言われればそれまでですが、現実と向き合ってばかりでは疲れてしまいませんか。林業と同じく人生もある種、先の見えない博打のようなもの。肩の荷を少し降ろして自分にできる範囲のことをやっていきましょう。私はまずは宝くじの購入から始めます。
●Information
森町森林組合
〒437-0208
静岡県周智郡森町三倉826−2
WEB https://www.forest-morimachi.or.jp/
ミリオンペタルバイクパーク
〒437-0208
静岡県周智郡森町三倉2167-1
WEB https://sites.google.com/view/millionpetalbikepark/