森で働く
# 23
吉野林業とともにあった
樽文化と職人
2023.8.18

日本酒やワイン、ウイスキーづくりに欠かせない木樽。樽職人がいることは何となく想像がつくでしょう。では、樽に使う材料そのものをつくる職人がいることはご存じですか?樽の板なんて機械を使えば簡単に加工できそうですが、どうやらそういうわけにもいかないみたいなのです。そんなニッチな職人の手仕事を実際に見てみたいと、奈良県川上村で暮らす樽丸職人・春増(はるまし)薫さんのもとを訪ねました。

写真:西山 勲/文:田中 菜月
樽丸職人/樽亮木材 代表
春増 薫さん

名古屋駅から近鉄特急の列車にゆられること約2時間、編集部が降り立ったのは奈良県橿原(かしはら)市にある大和八木駅。周辺には橿原(かしはら)神宮や藤原京、古墳など多くの史跡が点在する地域です。そんな橿原市から南に向かって車を走らせると、次第に緑が生い茂る山深い世界に入っていきます。しばらく山の圧迫感を感じながら進んでいくうちに、急に視界が開けてきた!と思ったら吉野川が見えてきました。吉野町あたりの川沿いには丸太や角材が置いてある木材の工場らしき建物が並び、なるほど木のまちだと感じる風景が広がっています。吉野川に沿って源流方向へさらに進み、出発から1時間も経った頃、春増さんの工房が見えてきました。

看板が出ているわけではないですが、外に積み上がった樽の板らしき木材や外に転がった丸太などの様子から春増さんの工房であろうことがすぐに分かります。私たちが工房に到着すると、話すよりも実際に見た方が早いだろうということで、早速樽丸づくりの一連の流れを見させてもらうことになりました。ちなみに、「樽丸」とは樽の側板のことです。

丸太の断面にクサビ状の刃を当て、上から圧力を加えて切り込みを入れる。

樽丸づくりはまず、丸太をケーキのように放射状に切り分ける作業から始まり、専用の機械を使って切り込みを入れていきます。機械のない明治・大正の時代までは手割りで行われていたと思うと、骨の折れる仕事です。切り込みを入れ終わると、おもむろに春増さんが丸太を床に投げ倒しました。

春増さんが樽丸づくりに使う「吉野杉」は、奈良県の吉野エリアにある川上村を中心に産出されるスギの総称です。他の産地に比べて真っ直ぐで節も少ない吉野杉だからこそ、切れ込みを入れるだけで木目に沿ってきれいに割ることができます。パッカーンと割れるので、思わず見惚れるほどの気持ちよさです。

「ノコギリのない時代でも、クサビで割って板をつくることができます。割れやすいから日本人はスギの木を重宝したんですね」

丸太をケーキカットしたあとは、薄い板に割る作業へと進みます。厚みが六分五厘(19.5㎜くらい)になるように測ったあと、年輪に沿って刃物を当て、ハンマーを打ちつけていきます。先ほどと同様に、こちらも木目に沿って簡単に割ることができます。

ジーンズにぶら下がっている写真左の道具は、板の厚みを測るためのものさし。右の道具はくさび。
年輪に合うように湾曲した刃物。引退した職人から受け継いだものだと言う。

「木を製材して、板が湾曲するようにプレナーをかければ見かけ上の樽丸は簡単につくれます。でも、それをしたら年輪を無視するから、樽にしたときに中身が漏れるんですね。だから年輪に沿って割る作業が重要なんです」

どういうことでしょうか?約1年ごとにできる年輪は、成長する時期によって早材(そうざい)と晩材(ばんざい)に分けられます。早材は春から夏にかけて形成された細胞の集まりで細胞そのものとその中の穴が大きく、細胞壁は薄いのが特徴です。晩材は夏から秋にかけて形成された細胞の集まりで、細胞壁が厚く、細胞の中の穴も小さくなります。この穴というのが、水を通したり体を支える“仮道管”です。(針葉樹の場合)この細胞の密度の差が年輪として目に見える形に表れています。そして、細胞の密度が大きい晩材が水を通さない機能として働いていると考えられます。こうしたことから、年輪と平行にして割った樽丸は、樽にしたときに中の液体が漏れないということなのでしょう。

続いて、厚みをそろえるための表面を削る作業に移ります。通常、樹木は根元が一番太く、上に行くほど少しずつ細くなっていきます。林業や木材の業界では、根元方向のことを「元」、梢方向のことを「末」と呼びます。吉野杉は元と末の太さがほとんど同じである点も特色の一つなのですが、このおかげで樽丸づくりでは削る作業が格段に楽になります。

「これ、簡単に削ってるように見えるけども、年輪がどこを削るか教えてくれてんねん。羊羹みたいに何にも年輪がなかったら削るのはかなり難しいと思う」

板を割るときに厚みは測っているため、年輪を頼りに軽く削って調整し、厚みを目で確かめれば削る作業は終わりです。

「お腹に当ててる道具は板の端まで削るための腹当て。刃物を腹に向けて削るから必要なんです。これはスギの根っこでできてるから丈夫なんですよ。普通の板を使ってたら絶対割れます。もらいものなんやけど、100年くらい前のものかなあ」

樽丸を乾燥させる部屋

あとは板の横幅をそろえるためにプレナーで削り、乾燥の工程を経て、樽職人のもとへ出荷する流れになります。工房内にある乾燥室にも入らせてもらいました。中に入ると全身がスギの爽やかな香りに包まれます。部屋の中は50%前後に保たれていて、2週間ほど入れておけば板もしっかり乾燥させることができるそうです。

「産地によってスギはそれぞれ香りが違うらしくって、灘の酒屋さんに言わしたら吉野杉とお酒の相性がものすごくいいって言うてますわ。私も元々山から木を出すのが仕事やったから、こんだけスギは香りがするのにびっくりしました。山で伐採したときなんてね、ヒノキと違ってスギはほとんど香りを感じたことなかったけど」

一番使われるという尺八サイズの樽(一升瓶40本入り)。春増さんの友人の手によって樽スピーカーに様変わり。

樽は竹の輪っか・樽丸・上蓋・底蓋を組み合わせてつくられます。乾燥して縮んだ状態の木材を竹の輪っかで締めて、そこへお酒などの液体を入れると木材が膨張します。これにより接着剤なしでも中身が漏れない樽ができる、という先人の知恵がつまった保存容器なのです。

「得意先は神戸の 『たるや竹十』って言うて、江戸時代から続く樽屋さんですわ。あとは佐賀県の樽屋さん。一番遠いところだと長崎の五島列島。そこは桶をつくってる若い人がいてはって、そこに送ってます」

桶の板をつくる用の材料。

樽とは異なり、桶づくりでは柾目の板を使います。そのため、ある程度厚めの板の状態で出荷し、桶職人自ら柾目の板に割るそうです。年輪に直交する形で割ることになるため、樽丸づくりとはまた別の技術が必要になります。柾目の板で桶をつくると木材の調湿作用が働いて、桶の中の水分量を程よく保つことができるため、寿司桶やおひつなどで使われています。

2階部分に置いてある板は出荷用に束ねてあるもの。正方形の断面になっているもので一束。

「二束分で昔のひと丸ですわ。竹の輪っかで締めて一本も木が落ちないような状態で詰めてもらったらひと丸ですよっていうことです。要するに量が決まらんと商売できへんから。竹っていうのは伸び縮みしませんやん。だからそこにきっちり詰めたらひと丸の量が決まる。ひと丸で50㎏ほどになるかな。昔の人は50㎏ぐらい簡単に持ったんですね」

ここ最近は感染症等の影響で樽が活躍する鏡割りの機会も減り、樽丸の需要もかなり減ってしまったと言います。一方で、樽酒としてお酒に木の香りをつけるための利用は続いているようですが、かつての樽文化の勢いと比べてしまうと実情は風前の灯火なのでした。

時代の寵児となった吉野杉

工房を離れて、春増さんがある森を案内してくれました。

奥に見える細めの木でも樹齢70年だという。

「ここは樹齢270年のスギの人工林です。枝打ちなしで、自然に落枝させてつくり上げた山。節のない材が求められた時代(昭和期)は原木1本で1千万円とかで売れたこともあったね」

節は枝が生えていたことを示す痕跡です。木の若いうちに枝を切り落としておけば、数十年経って木材に加工したときに節が見えなくなります。こうした枝打ちの技術が林業にはありますが、吉野林業では“自然に落枝”させる点が他にはない特徴です。植林するときにたくさん苗木を植え(1haあたり1万本。他の林業地は3000本前後)、その苗木が大きく成長する過程で隣り合う木々の枝葉が重なって下の方の枝葉に陽が当たらなくなり、枝が枯れて落ちるのです。ただしこれは枝が折れやすいスギに限られます。

節がないと丸太を割りやすくなる。節があって薪割りに苦戦したことがある人も多いだろう。

自然落枝の状態で成長を続けると、木は縦に伸びますが、横には太っていかなくなり、木がひょろひょろになってしまいます。そこで、陽の光が当たるように間伐の頻度を多めに行うことも育て方のポイントになります。そして、径の太い材をつくるため100年単位で木を育てる点も吉野林業の特質です。他の林業地では50年前後を目途に伐採して収穫することがほとんどですが、吉野林業では50年はあくまで育林の通過地点なのです。

「人工林で200、300年生の木を持ってる山はもう吉野しかないでしょうね。あの秋田杉かって天然林はもう伐採禁止やから、太い木がほしい言うて吉野に買いに来てますわ。明治神宮の鳥居に使う木も最近ここから出て行ったんですよ」

「樽丸づくりは1700年代の初めにはじまったんです。この川上村で。最初は隣の黒滝村に樽丸づくりの技術が伝わって、そこから樽の材料が作りやすいような林業に特化していくんですよ。植林自体は1500年代にはじまってますわね。吉野林業が『樽丸林業』って言われるのは1700年代以降のこと。樽丸に節があったらその隙間から中身が漏れるから、節のない木材をつくるために極端な密植がはじまったんです」

特徴的な吉野林業の形は、時代の変化に合わせてできあがったものでした。そして、吉野杉の樽丸が神戸・灘へ運ばれ、そこで樽をつくり、日本酒を詰め込んで江戸へと運ばれて行ったのでした。

樽丸の桟積み。山の中で樽丸づくりが行われていた頃から、この桟積み方法が愛用されてきたそう。

「灘から江戸へ運ばれるのは年間で120万樽。たぶんおっつかなくなったんやろうね。灘で材料づくりからやってたら。だから吉野で材料をつくってくださいっていう話がきたと思うんです。堺の人が隣の黒滝村にその技術を伝えて、川上村の人もそこへ勉強しに行って。ほんで山で木を割って削って干してね、山道下ったら筏を使って川で運べるから、植えた木が出材の難しい場所でもちゃんとお金になり出した。吉野の山にお金が潤沢に落ちはじめたのはその頃からだと思いますね」

●吉野林業の歴史はこちら
https://yoshinoringyo.jp/kawakamimura-yoshino

山仕事の働き方改革

春増家は川上村で代々材木商を営んできました。春増薫さんで15代目です。春増さんが山仕事を本格的にはじめたのは24歳頃のことでした。

「大学を卒業して、1年間は山仕事でお金を稼いで、それから日本を出たんですよ。船に乗ってソ連へ行きました。ハバロフスクからシベリア鉄道でスウェーデンのストックホルムまで。そっから半年あまりかな、1日に1つの町で一泊しかしないと決めて海外をウロウロしていた。ほんで日本に帰ってきて、そっから自分の仕事は山仕事にしようって決めてね」

山に生えている立木を買い、それを伐採して運び出し、市場に売る仕事を再びはじめた春増さんは、山仕事の面白さを感じるようになってきたと言います。

「自分の関係してる山だけじゃなしに、隣の町の山とかね、あっちこっちの山買いに行かしてもらって、木を出しましたよ。300本500本の木をトータルで買う。枝打ちしてあるかしてないかは木の皮を見てしか判断できないから、自分の見方が誤ってたかどうかは1本伐ったらわかりますわ。『あ、この山損した』とかね。それが面白い」

「神社の木を1本買う人なんてもっとすごいですよ。木をまとめて買うんやったらいいのも悪いのもあるから最終的には変わらんけど、1本の木に腐りが入ってるかなんて、300年400年の神木なんてわかりませんやん。あるおじいさんは片方の耳を幹に当てて、反対側から針で突いてもらったら中が腐ってるかどうかわかるとかね。そんなんほんまかなって伝説的な話もありますよ。材木の世界ってのはすごい奥が深いし、まだまだ僕らもわからんことあるけどね」

春増さんが材木の世界の奥深さをますます知ることとなったのは、樽丸づくりをはじめてからだと言います。それは1997年、春増さんが50歳になる手前の頃でした。

「ここの倉庫はもともと山の機械が入ってたんですよ。集材機とかいっぱい入ってて。ちょうど山からの出材方法がヘリコプターに変わりかけのときやって、もう集材機もいらんなあと思って。ほんで使うっていう人に全部あげて、この場所なにしようっていうことで、売りづらい木があったからね、それを樽丸に使おうかなってやりだして。山仕事しとる人はやっぱ嫌がるんですよ、こんな地味な仕事(笑)。飲みすぎて朝起きて雨やったら山仕事は休みですやん。ここは屋根の下やから休みなんてないですわ」

「山仕事ってのは結構日当が高い仕事でした。高い村やったら30年40年前で1日2万円ぐらいかな。ものすごい高いんやけど、年収が多いかというとそんなに高くないんですわ。雨が降ったら休むからね。そやけど、山仕事と屋根の下の仕事の両方あれば年収が上がるし、子どもとも約束できますやん。雨降ったら遊園地連れてったるって言うても、日曜日は雨とはかぎらんもんね。日曜日になったらここへ連れてったるって子どもと約束できるような、そんな世界をつくりたかった」

そうして樽丸づくりをはじめた春増さん。周囲には頼もしい協力者がたくさんいました。「川上村のあっちこっちで樽丸やってるお年寄りがいてはって、私が継ぐって言ったら道具を持ってきてくれたんですよ。『これ使い』って言ってね」。周りにいた熟練のおじいちゃんおばあちゃんからつくり方を教わり、技術を磨いてきました。

「当時は自分で出してきた木で市場で売れない木を樽丸に使って、市場で売りやすいやつは全部市場で売ってたんですよ。材料費はゼロに近いですやん。でも手間がかかるんです。自分で割りやすい材を選べないから。それやったら市場で選んだ方がものすごい楽やからね。だから今は市場で買ってます。もう5、6年くらい山から木を出してません。買わしてくださいって刻印を打ったままの木もあるんですよ。でも、今木を出してもヘリコプターつこてやったら採算が合わんから。木の売値と出材経費を比べたら経費の方が高いからね」

●吉野林業のヘリコプター集材についてはこちら
https://naranomorikara.nara.jp/contents-learn230510/

山の中のアジール?

取材前、春増さんの活動についてリサーチしていると、業界内外の人が春増さんのもとを訪れ、私たちと同じように樽丸づくりについて話を聞いた模様をブログや動画にアップしている情報を目にしていました。公の取材というわけではなく、ふらりと訪れたような個々に対して接しているところが面白いと感じ、どんな思いで対応しているのか聞いてみることにしました。

「吉野は田んぼないですやん。この田んぼがない村で商売でしか生きてきてないから、商人にだまされたりあるいは助けられたりいろんな思いしてますわ。人とのつながりの中で生きてきてるからそういう気質っていうんか、初めての人や逃げてきた人に対しても案外大事にしてあげるっていうんか、そういう気質あったんとちゃうかなって。尋常でないほど吉野に逃げてきてるもんね。後醍醐天皇とか。だから初めての人でもウェルカムなのかもしれんね」

そんな気質もあってか、近所で一棟貸しの宿を営む移住者・横堀さんに樽丸づくりも教えていると言います。最近では横堀さん自ら樽や桶づくりなども独自に学び、販売まで行っているそうです。

「僕がいなくなっても樽の仕事があるとしたら、彼がここを使ってくれたらいいし、うちも息子が2人いるけども、たぶん彼らはしないだろうから。やりたい人がしたらいいのよ。修行してる彼だってまた違う世界に行くかもしれんし、それでいいと思う」

衰退のフェーズに入っているとも言える樽丸ですが、人とのつながりの中で樽丸づくりの話が舞い込み、地域を挙げて樽丸をつくってきた歴史文化を持つ吉野なら、この先どこかの地点で再び変化が起こりそうな気がしてきます。春増さんが言う吉野の気質があるかぎり。

●Information
樽亮木材
〒639-3633
奈良県吉野郡川上村中奥236-2
0746-54-0025

田中 菜月 (たなか・なつき)
1990年生まれ岐阜市出身。アイドルオタク時代に推しメンが出ていたテレビ番組を視聴中に林業と出会う。仕事を辞めて岐阜県立森林文化アカデミーへ入学し、卒業後は飛騨五木株式会社に入社。現在は主に響hibi-ki編集部として活動中。仕事以外ではあまり山へ行かない。