森で働く
# 22
持続的な狩猟と
造林とまちづくり【後編】
2023.6.6

近頃は身近なところでジビエ料理を目にするようになってきました。本やマンガ、動画などを通して自ら発信するハンターが少しずつ増えるなど、若い世代や新たに狩猟の世界へ飛び込む人もじわじわ出てきています。そうした状況のさらに先を行くのが、2010年に「猪鹿庁」を設立して狩猟事業をスタートさせ、現在では造林専門の会社を営む〈郡上里山株式会社〉の代表・興膳健太さんです。狩猟から林業に至った経緯とこれからについて話を聞かせてもらいました。後編は造林や狩猟に留まらない興膳さん個人の取り組みに迫ります。

▶前編はこちら

写真:孫 沛瑜/文:田中 菜月

ドイツで出会った
かっこいい高校生

興膳さんは造林や狩猟の仕事以外にも、移住支援や日本酒づくりなど多彩な仕事をこなしています。それもこれも「郡上を面白くしたい」という尽きることのない郡上愛に突き動かされてのことです。福岡県出身の興膳さんはなぜこんなにも郡上への思いが強いのか。その原点は環境問題にぶち当たった小学生時代にさかのぼります。

「ゴミ問題とか色んなやばい地球の現状が書かれている本を担任の先生が読んでくれたのですが、それを聞いて絶望的だなと思いました。なんでこんなやばいのに大人たちは何もしないんだってわりと怒りを持った変な小学生でした(笑)」

大学生になると、環境問題の現状を伝えるために環境教育に関わるようになります。活動に携わる中で葛藤もありました。「環境教育をやってるときに、子どもは何も悪くないのに脅かしてるような気持ちになって、なんかすげえやだなと思うことがありました」

そんなときに「福岡県グローバル青年の翼」という県の事業を知ります。国際的な視野を持った人材を育成するための事業で、当時は10万円でドイツとフランスに6泊8日滞在できるという内容でした。環境先進国と言われるドイツに興味のあった興膳さんはこの事業に参加し、一つのヒントを得て帰国することになります。

「ホームステイ先の高校生が朝、散歩に連れて行ってくれたのですが、なんでもないブドウ畑の周りを歩いてて『自分はこの場所が好きなんだよね』みたいな紹介をしてくれて。なんもない普通の場所なのに自分の住んいでるここが好きって言い出す高校生に感動して、『やべえ、こいつかっこいい!』と思って(笑)。環境問題がやばいって動く人より、この地域が好きだからゴミを拾うとか、川が好きだからきれいにするみたいな、自発的な動機で地域を良くする、環境問題を解決するって大事だなと思って。環境問題じゃなくて“まちづくり”だなって思ったんですよね」

それまでは福岡大学理学部地域圏科学科で自然科学を中心に学んでいましたが、ドイツでの出会いをきっかけにまちづくりに興味が移りました。その中で岐阜大学地域科学部を見つけ、編入を決めます。しかし、ときはすでに遅し。編入試験は終わっていたため、北海道で1年間働くことになりました。

「福岡を出たかったのと、どうせやるなら変わったことやりたいと思って北海道に行きました。牛の乳しぼりをしていたのですが、過酷な一次産業の現場はやばかったです。研修生で入ったので、1日働いて3000円の給料でした。フルで働いても月10万も稼げない。ぶっちゃけ北海道にいるときはね、福岡帰りたいモードになってて。もうしんどくて(笑)」

その後、無事に編入試験に合格し、晴れて岐阜の地へ。在学中は持続可能な地域社会をつくることをテーマに活動し、その中で郡上市と出会い、まちと地元の人に惹かれて大学卒業後すぐに移住することになります。

郡上里山株式会社ができるまで

興膳さんは郡上市に移住後、〈メタセコイアの森の仲間たち〉というNPO法人に就職します。当時はキャンプ場の運営や林間学校の受け入れが主な仕事でした。自然体験インストラクターとしてカヌーを教えたり、トレッキングガイドをしたりと子どもたちに自然の魅力・面白さを伝える仕事をしていました。

「運がいいことに(?)僕が入った年に代表が辞めちゃったんですよ。これはチャンスだと思って『次の代表は俺がやる!』って最初から乗っ取る宣言をしてました(笑)。自分がいた最初の2年間は臨時で地元のおじいちゃんが代表をやっていたんですけど、理念とかも特になく活動してたので、広報誌を作ったりして勝手に理念を書き換えていくみたいなことをやってました(笑)。郡上のまちづくりをするNPOに徐々に変えていったんですね。そしたら3年目で『お前代表やれよ』って言われて、宣言どおり代表をすることになりました」

代表になってからは、林間学校のシーズンオフである冬季の仕事をつくることが課題でした。ほとんどのスタッフが半年雇用のため、冬はスキー場やスーパーでアルバイトをして生活費を稼いでいたと言います。何かヒントはないかと、地元の人たちに昔の冬の仕事について話を聞いていく中で、あるとき猟師さんからとんでもなくおいしいイノシシ肉を食べさせてもらう機会がありました。

郡上市はイノシシの日本三大地と言われていて、イノシシを食べる文化がある地域ですが、このときすでに猟師の高齢化が進み、20〜30代の若手がほとんどいない状況でした。そこで興膳さんは冬の仕事として狩猟事業をはじめようと動き出します。

「『半農半猟師』の新しいビジネスモデルをつくる、という企画で県のプロポーザル事業に提案したところ採択されて、2人雇用して新しく事業をはじめました。3年間の事業だったんだけど、狩猟の方が面白すぎてキャンプ場の仕事はわりと流してたんですよね。キャンプ場のオーナーにはそれが見透かされていて、『やりたいことやるなら外出るか、うちに残るならうちのことだけ集中しろ』って言われて。臨時総会を開いて話し合ったら、『行けるとこまで行け』って背中を押してもらったので独自で事業を起こすことにしました」

「日本猪祭り」で各地の猪肉を集めて“利き猪”を行う様子。興膳さん写真提供

これが前編で登場した里山保全組織「猪鹿庁」の設立につながっていきます。自主企画の子どもキャンプや狩猟の体験プログラムの開催、ジビエの飲食出店にとどまらず、若手猟師の勉強会「狩猟サミット」、全国のイノシシ肉の中からグランプリを決める「日本猪祭り」の開催など、多岐にわたって取り組みを展開してきました。狩猟の魅力を伝えるとともに、都市部の若い世代に郡上市に来てもらいたい一心で活動を続けてきたのでした。

一方で、猟師だけで食べていく難しさも感じたと言います。おいしい肉が簡単にいつでも獲れるわけではないこと、肉を捌く作業が大変すぎること、ジビエは安い値段でしか売れないこと。そもそも家畜ではない野生動物を獲りまくれば自ずと個体数は減り、持続的な仕事にできません。そこで、獣害対策事業や狩猟者育成の事業などを県から受託し、経営を安定させる仕事も行ってきました。

奮闘を続けるうち、2016年には自然体験事業と狩猟事業を軌道に乗せることができました。そして、代表を務めていたNPO法人を3つに分社化し、獣害対策や狩猟者育成などの儲からない事業を興膳さんが引き取って〈郡上里山株式会社〉を設立するに至ります。

「新しいイベントとか考えるのは好きだから、猪鹿庁で新企画を考えるときは自分も関わるんだけど、今やってることを続けるのって自分には全然向いてなくて。0→1はテンション上がるんすけど、1から2とか10にしていく工程は全然向いてないので。だからできる人に任せようと思ってバトンタッチしました」

民の力が強い
郡上という地域

岐阜県郡上市は、毎年夏に繰り広げられる「郡上おどり」がアツい地域です。7月中旬から9月上旬にかけて市内各地で毎夜踊る日本一ロングランの盆おどりであり、特にお盆の期間は夜通し踊るクレイジーな徹夜おどりが必見です。

郡上踊り。写真提供:久松礼佳

「郡上おどりは誰でも輪の中に入っていい踊りなんですよ。輪の中に入りなよって誘ってくれるし、中の人が『俺見て踊れや』って世話を焼いてくれる。だからか、郡上の人たちは普段からよそ者をすっと輪の中に入れる文化というか習慣があると思います。郡上おどりを通じて輪の中に入った方が実は楽しいよってことを知っているんじゃなかろうかって気がします。それに、過去の百姓一揆で唯一成功したのは郡上一揆だったって言われていて。直訴して殿様変えたんだよ。今でも民の力が本当に強い地域だと思う」

そんな郡上の何に惹かれているのか、最後に興膳さんに聞いてみました。

「人だろうなとは思います。かっこいい大人が多かったんだよね。郡上の人たちは『よう来たよう来た』『これ食え。うめーやろ』って上からマウント取ってくるんですよ(笑)。他の田舎とはちがって自信があるし、郡上のことを好きな人が多い気がします。最初の話に戻ると、自分のまちが好きなら自発的に色んな活動ができるようになるんですよ。そもそもそんな地域と出会ってしまったからちょっとずるいけど、『俺もここに住んじゃおうかな』ってノリで郡上に入ったんだよね。本当に郡上のことが好きな人が多いから、何やるにしても人が集まるし面白いんだよね」

環境も経済も持続的な地域社会をつくっていくためには郷土愛が大切だと興膳さんは考えるからこそ、郡上が好きな人をさらに増やし、より愛せる地域にするためのまちづくり活動に邁進しているのでした。狩猟や造林も立派なまちづくりの一つなのです。

●Information
郡上里山株式会社
〒501-4601 岐阜県郡上市大和町大間見307
050-5308-7785

田中 菜月 (たなか・なつき)
1990年生まれ岐阜市出身。アイドルオタク時代に推しメンが出ていたテレビ番組を視聴中に林業と出会う。仕事を辞めて岐阜県立森林文化アカデミーへ入学し、卒業後は飛騨五木株式会社に入社。現在は主に響hibi-ki編集部として活動中。仕事以外ではあまり山へ行かない。