森で働く
# 7
柳沢林業 Vol.2
山に生かされる女性社長
2020.9.23

「森と関わって働く人」のリアルな現場の声を伝えていく当連載。会社全体を取り仕切る、という立場にもまた現場はあります。#3に引き続き柳沢林業から、馬による木材搬出や里山の活用など幅広く活動を手掛ける代表取締役の原薫さんに話を伺いました。

写真:西山 勲/文:田中 菜月

社員と馬の成長
見守り続けた3年

株式会社柳沢林業の女性社長、原薫さん

《林業会社経営》
原 薫さん
株式会社柳沢林業(長野県)
代表取締役

柳沢林業の特殊伐採現場の取材を終えた編集部。一行が向かったのは、山の麓にある牧場でした。ここで私たちを待っていてくれたのが、同社代表取締役の原薫さんです。林業会社なのになぜ牧場? 実は、林内から木材を運び出すため、“馬搬(ばはん)”の取り組みを始めたのです。その名のとおり、馬の力を借りて木材を搬出する馬搬。業界的には高性能林業機械の導入が進められる中、まさかまさかの“馬”……!どうしてまた手間のかかりそうなことを始めたのでしょうか。

「こんなことをやってもすぐお金にはならないんですけど、それでもやらなければと思っています。これまで同じことをやり続けてその延長線上に明るい未来が想像できれば何もしないんですけど、たぶん無理だなって思ってしまった。このままじゃ自分も楽しいと思える仕事ができないし、木を伐って売るだけ山を壊すだけの林業じゃいけないという危機感がありました」

柳沢林業で馬の世話を担当する犬飼さん
馬の世話を担当する犬飼哲平さん。以前は同社の山林班で林業に従事。愛馬のヤマトは元々ばんえい競馬で活躍していた。

馬搬は会社の将来を見据えた取り組みであること、そしてもう一つ大事なことがあります。それは社員の成長のためでした。

「彼(犬飼さん)の仕事を何か考えないとっていう思いもあったんです。すごく一生懸命に仕事に取り組む反面、ちょっと視野が狭くて、ヒヤリ・ハットが多い人でした。その一方で、人が嫌がるような汚い・きつい仕事を率先してやってくれる。そんな彼に向いている仕事をつくりたいと思っていました。彼は犬飼っていう名前のごとく犬とか動物、鳥にもすごく詳しくて、生きものとの相性が良かった。とはいえ、いざヤマトを受け入れてここまで来るのは大変でしたね、ほんとに色々ありました……(笑)。今思えば、馬に詳しい人を採用した方が早かったんですよね。でも、この3年っていうのは彼がここまで成長するのにきっと必要な時間だったのかなって今は思えます」

馬小屋にはヤマトがばんえい競馬で活躍していたときの写真が飾られていた
馬小屋にはヤマトがばんえい競馬で活躍していたときの写真が飾られていた。

3年におよぶ犬飼さんの長いトレーニングの日々が続きました。トレーニングでは岩手県遠野市にある馬搬振興協会や馬に詳しい地元の人たちに指導を受けました。調教ではとにもかくにも「馬」を知ることが重要だと原さんは言います。

「馬はどういう動物で、どんなふうに接したらいいのか知る必要があります。彼はね、優しい男なんですよ。ヤマトが来た最初の頃は怒ることもできませんでした。群れの中で集団行動する馬はリーダーの言うことだけは聞くんです。だから人間がそのリーダーの代わりにならないと、言うことを聞いてくれない。かといって、怒っても萎縮しちゃうだけなので、いいコミュニケーションが取れないんですけど。でも徐々に怒ることはできるようになって彼の成長を感じました。大きな声を出したところで言うことは聞かないし、重量のあるヤマトは力ずくでも動かない。すると、どういうふうにコミュニケーションを取ったらいいんだろう、自分の意のままに馬を動かすにはどうしたらいいんだって考えるようになります。それから彼自身変わり始めたような気がします」

馬搬(馬の力を借りて木材搬出)に向けて練習中
トレーニングではタイヤを引いて木材搬出の練習を積み重ねます。

こうして馬の調教が進み始めた一方で、社内での理解はなかなか進みませんでした。

「私が社長になって3年目ぐらいにヤマトが来たんですけど、会長から『こんなことするなら社員の給料上げてやれ』って言われました。『上げるために今までと同じことやってちゃダメだから』って反論したものの、会長からの反対が最初にあったこともあって、ヤマトのこと、牧場のこと、そこへの理解が社内でなかなか得られなかった。それも彼にとっては寂しいわけですよ。誰かに相談したいこともあっただろうし。そんな状況もあって『もう辞める!』ってなったことも何回かありましたね。でも今は少しずつ理解してもらえるようになって、去年の春からはもう林業の現場へ行かずに専属でやってもらえるようになりました」

しかし、まだ収入を生み出すまでには至っていないのが現状です。馬搬の現場デビューを果たしたばかり。機械が入れない場所から木材を運び出せるヤマトは、柳沢林業の頼もしい存在になりつつあります。あとは、どこの木を伐って出してくるのか、山主さんとの調整が問題になってきます。「馬搬で出してきたからって高い値段で売れるわけじゃないですけど、でも、馬搬だからって選んで買ってもらえたらいいな」と話す原さん。本当の意味でこれからがスタートです。

社員の成長で
会社が育つ

子馬と子ども
ヤマトが大好きな同じ地区に住む8歳の男の子。小学校を辞めてこの牧場に入り浸っているそう。まるで牧場の番人。左はポニーの“こたろう”。

原さんは会社の行動指針の一つに『社員の幸せ』を挙げています。馬搬の取り組みでも社員の成長を考えているように、“人”に重点を置いた経営方針が印象的です。

「社員一人ひとりを大切にしたいという思いは社長になる前から考えていたことです。いわゆる“いい会社”と評価される県内企業の経営者の方と懇意にさせてもらう機会があって、その中で『社員が幸せでないとお客さんを幸せにすることができないんだ』って気付かせてもらいました。それと、ヨガインストラクターをやった経験も大きいですね」

柳沢林業に入社して5、6年経った頃、現場作業などでケガが立て続きました。1年半の間に5回ほど。チェーンソーで足を切ったり、材木に跳ねられて打撲したり、クレーンで宙吊りなったこともありました。

「ケガも含めて色々あって会社を一度辞めて、ヨガインストラクターの資格を取って講師をしていた時期もありました。そのときに、『自分がうれしいと感じることは“人の成長”なんだな』って思ったんですよ。本来の生き方から外れるほど身体の不調なんかが起きるんですね。ヨガではそこに気付いて、いらないものを捨てられると、本来の自分に戻りながら元気になっていく。そうやって人が生き生きしていく姿を見るのがすごいうれしくて」

ヨガで学んだことが社員との関わりにもつながっています。

「社員の成長が会社の成長だと実感しています。私だけがんばっても長続きしないですし。一人ひとりの社員がチャレンジして、新しい自分を見つけて、自信をつけていく。自分の中のブロックをどんどん外していくことも大事です。そのブロックは人間関係が一番大きいですけど、そこに囚われなくなるほど自分の願いが叶うということが見えてくるわけです。いきなり大きいことは難しいと思うんですけど、ちっちゃな成功体験を積み上げていくことで、彼(犬飼さん)みたいに自信をつけて、次はこれに挑戦してみようって、そうやって変わっていくのを見るのがすごく好きですね」

女性だからこその視点かもしれないと原さんは言います。前代表とは真逆の経営スタイルです。

「当時の代表(現会長)はワンマンで、『俺について来い』っていうタイプでした。会長は現役時代ずっと第一線で、自分が現場に行ってすべての指示を出していましたね。わたしはそうなれないと思っているし、それよりも経営基盤をつくらなきゃいけなかったので、どんどん皆に任せるようにしました。会長はいい意味で面倒見が良くて、1から10まで指示を出さないと気が済まない、というか任せられない人なんですよ。でもそうするとね、社員は成長しない。私は良くも悪くも忙しくなって、自分だけじゃできなくなって、もう皆にお願いするしかなかった。皆も協力してくれて、すごくありがたいの。それでいいのかなあって。誰かの役に立てた、感謝されたってことに人はやりがいを見出すものなので。そういうことが経営の中で一番大事なことかなと思っています」

職人を志した20代から
経営者になるまで

ここまでどっぷり林業の世界に入り込んだ原さんですが、元々はまったく林業の道に進むつもりはありませんでした。振り返ってみると、大学時代に受けた授業が一つのきっかけだったようです。

「環境系の勉強がしたいと思って、農学部がある大学へ進学しました。興味があって3年生のときに樹木学を取ったんですけど、それがすごく面白くって。木の生理的な部分よりも、木をどんなふうに使ってきたのかっていう民俗学的な側面に惹かれました。日本はヨーロッパとは比べ物にならないほどいろんな種類の木が生えていて、昔の人たちは木ごとの特徴をとらえて使い分けてきましたよね。その辺りの話が面白く感じました。夏の実習では大学の演習林にも行きました。その演習林の技官さんに南アルプスの登山に連れて行ってもらったこともあって、それで山に開眼しました。でも、就職するときに林業は視野にも入ってなかったし、ろくに就職活動もしないで卒業後はアルバイトをしてましたね。でもやっぱり環境には携わりたくて。環境を教育の場に求めて、小学校の先生の免許を取ろうと通信で勉強することにしました。そのとき勉強していた図書館で『木を読む』という木挽職人(※)の本をふと手に取って読んだんです。色んな木を活かしてきた日本の文化、それを職人の語り口で書かれているその本がすごく面白かった。『環境問題』と大上段に構えるのではなく、この日本に連綿と受け継がれてきた『木の文化』を継承する一人の職人になれればいいんじゃないか、そう思っちゃったんですよね」

※木挽職人とは、材木を大きなノコギリで挽き割って、板や角材などに製材する人のこと。

独自に調べる中で伝統工芸の世界はどこも後継者不足と知った原さんは、まず木工の技術を身に付けようと思い至ります。専門の学校に入るべくお金を貯めることにしました。そんな折、演習林の技官さんから就職の話が舞い込みます。

「お金も欲しかったしすぐ働けるってことだったので、紹介先の静岡県にある森林組合に事務職として入りました。3ヶ月の試用期間を終えて職務分掌をいただいたら、なぜか素材生産(山林での木の伐採や運び出し)の担当だったんですよ。それから現場にも行くようになって、今生きていれば90歳くらいのおじさんたちとの現場仕事にハマってしまいました。それからどっぷり林業です。木工職人の話はどこに行っちゃったんだろう(笑)」

その後、長野県に移って林業に携わり続けます。27歳のときに結婚。その後も変わらず現場での仕事を続けていました。

「柳沢林業に入る前は別の一人親方の元で働いていました。柳沢林業の会長(当時は社長)は近所のおじちゃんだったんですよ。町内の運動会で会ったときにそろそろ職場を変えようと思っていると話したら、『じゃあ今度うちの現場見にくりゃいいわ~』って言ってもらったので、早速見に行きました。やってみたいならどうぞって感じだったので、すぐ入社することにしました。31歳の頃かな。1回辞めた時期もあったけど、トータル10年くらいは社員として現場で働いていましたね」

現場作業員時代の原さん
写真提供:取材先
現場作業員時代の原さん。

現場作業員として働いていた原さんのもとに、社長就任の話が持ち上がったのは現会長が引退を考え始めた頃でした。

「会長が67歳のときに、『自分は子どもがいないし、70歳になったら身を引くから後を継いでもらえないか』って言われていました。でも、その頃に例のケガがあって、ヨガに走り、一回退職したのですが、自分は室内に生きる人間ではないなと改めて感じてもいました。それから少しずつ林業現場に復帰していき、完全に会社に戻りました。そんなこんなで、私が辞めたことで社長就任の件は一旦振り出しに戻ってしまった。なので紆余曲折ありましたが、最後は会長が『薫ちゃんやってくれや』ってことで私の社長就任が決まりました」

笑顔の中に隠れた
絶え間ない葛藤

大学生時代の原さんの人生設計には恐らくなかったであろう、林業会社の代表というポジション。責任重大な役割をどのように受け入れて行ったのでしょうか。

「最初に会長からやってくれやと言われてから就任するまで期間はあったので、社長になったときにどうすればいいんだろうっていうことは考えてはいました。急なことではなかったから、まあやるしかないなって。あとはヨガで丹田と呼ばれる部分を鍛えていたのも大きいですね。肚が据わるようになりますから(笑)。今ならどんなことがあっても笑っていられますけど、社長1、2年目のころはすごく怖い顔してやっていたのだと思います。お金の借り方も知らなかったですからね。毎日がヒヤヒヤで胃が痛いこと(笑)。会長もね、翌月の給料が払えないってことが1回あったらしくて、そのときに髪の毛が真っ白になっちゃったんですって。気持ちは分かりますよ。それぐらいプレッシャーは大きいものです」

柳沢林業の馬搬で活躍するヤマトがいる牧場の全景
ヤマトがいる牧場。イベント会場として使われる。

社長業も安定してきた今は、馬搬のような新たな取り組みを始めていますが、それはあくまで先行投資。すぐに収入に結びつくものではありません。長い目で見る必要があります。また、そうした投資を支えるためにはライスワークとしての収入源も欠かせません。

「林業(補助事業の森林整備)って事業費の7割ぐらいが国等の補助金なので、残りの経費は材木の売上でカバーしないといけないのですが、この地域には全国的に多いスギやヒノキはほとんど植えられてなくてカラマツやアカマツばかり。カラマツはやっと値がつくようなってきましたけど、アカマツはどんどん枯れているし、買ってもらえない。カラマツの山ともなかなか縁がないし、なんとかアカマツの商品化を考えているところです。あとは公共工事をするっていう選択肢もあると思うんですね。県の治山工事をうちもこの間初めて取りました。でっかい堰堤を山の中に入れるための伐採をするんですけど、山を良くしたいから林業をやっているのに、何でこんなことしてるんだろうって正直思うときもあります。もちろんライスワークとして割り切ってやらなきゃいけないんですどね」

笑顔と挑戦の裏には絶え間ない葛藤がありました。

森も自分たちも
幸せに生きるために

同社の経営理念で掲げているように、“山と人が生かし生かされる”、そんな関係を目指しているからこそ、今はまだ思い描く理想の道半ば。

「やっぱり山にもお客さんにも喜んでもらえることがしたいですね。生産量が少なくても、自分たちが木を伐ることで山を生かすことにつなげたいし、木自体を活かしたいなって。だからその一つが馬搬ってことです。最低限の手を入れながら自然の淘汰に任せるところと、今後も継続して木材生産するために人工的に管理するところ、メリハリのある林業をやっていきたいですね」

もちろん現実は厳しい。それは山が不動産であり、誰かの資産として土地の所有者がいるということ。好き勝手に山づくりができるわけではありません。

「地域で連携している団体・SOMAMICHIで『シェアフォレスト』という構想を打ち出して、山林の管理権と所有権を分離させて、管理だけお任せしてもらうような形をつくろうと考えています。管理の中で土地を活用させてもらうというふうに解釈を広げて、例えば、マウンテンバイクのコースをつくって、そういった関係者にも山の整備に参画してもらうのも、一つの手です。教育とか予防医学的な観点から森林を使うのもいいですね。山を地域に戻したいです。昔は山って地域で共有する資産で、集落全体で管理していましたからね」

ソマイチの様子
写真提供:取材先
牧場で開催されたイベントのひとコマ。

山にある素材をフラワーアレンジの材料にしたり、月一のイベント「SOMAICHI」で木材の定期市をやったり、薪小屋をつくってみたり、寒いときは焚き火で焼き芋、窯でピザを焼くこともあります。

「これからの林業って何なんでしょう。正解なんてわかりません。でも、木材だけじゃない価値を見出していきたいし、社員の人間的成長や可能性を開いていくこととリンクさせていきたいです。社員は木を伐ることしかできないわけじゃなくて、こんなことやあんなことをしたいって夢があるでしょう。そうしたことが会社の事業にもつなげられるようになれば、いろんな山の可能性が広がって、木材の新たな利用ができるかなって思います。シビアな世界だけど、生きる楽しみっていうか、こういうことが楽しいんじゃないのっていうことをちょっとでも多くの人に届けていきたいです」

長野県松本市の遠景

やってみたいことはまだまだたくさんあると言います。危険だし儲からないし、という暗いイメージを持たれがちな林業ですが、捉え方・考え方次第で明るい可能性は十分に開けてきます。困難だと思っていても、やるか、やらないか、それだけです。

写真提供:取材先

「裏山や里山で自由に遊べるのが当たり前の時代が来たらいいなあ。この牧場や周りの里山に地域の人が薪割りやフラワーアレンジメントなんかをするために、継続的に遊びに来てほしいです。福島県の花見山に花木を生産する農家さんがいて、自分の山で育てた花木を開花するちょっと前に出荷しているらしいんですけど、全部伐るわけじゃないので、残ったものは花が咲くとすごく山がきれいなんですよ。一般開放するようになって、今では観光地になっているそうです。そんな花好きが来てくれるような山があってもいいなって思います。生活に潤いをもたらすような、そういう場としての里山。枯れてしまったマツ林をどんな森に変えていこうかって考えるとワクワクしますね」

原さんと話していると、賑やかな森のイメージがどんどん膨らんで楽しい気分になってきます。もちろん本人は不安な部分もあるはずですが、常に前しか見据えていない姿勢に自分まで励まされる思いでした。野望があって経営者に至ったわけではなく、その時々に直面する現実と向き合ううちに今のポジションに落ち着いた流れを知り、人生は地続きだなとも感じさせられます。

“働く”ということにフォーカスすると、自ずとその人の人生も表出してきます。そうした選択の背景にはその人自身の指向や哲学が無意識ながらにもあるはずだからです。この連載は7回目になりますが、この先も一つとして同じ森での生き方はないでしょう。働き方も然りです。職人として一つの技を極めたり、色んなジャンルの業界を渡り歩いたり、多種多様で自由な森での生き方があります。それじゃあ自分はどう生きていこうか、自分に合った森との関わり方・暮らし方ってなんだろうと、今日もまた想像を巡らしてみましょう。

●Information
株式会社柳沢林業
長野県松本市岡田下岡田774-1
TEL 0263-87-5361 FAX 0263-87-5362
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田中 菜月 (たなか・なつき)
1990年生まれ岐阜市出身。アイドルオタク時代に推しメンが出ていたテレビ番組を視聴中に林業と出会う。仕事を辞めて岐阜県立森林文化アカデミーへ入学し、卒業後は飛騨五木株式会社に入社。現在は主に響hibi-ki編集部として活動中。仕事以外ではあまり山へ行かない。