日本列島のほぼ真ん中に位置する岐阜県は、7つの県に囲まれた内陸地です。住んでいる方ならご存じのとおり、周りを見渡せば山ばかり。山しかないといえばそうなのですが、資源をたくさん秘めているとも言えます。では一体、何が眠っているのでしょうか?ザクっと掘り起こしてみましょう。
岐阜の土地は
8割が森林
「岐阜県民の歌」を聴いたことはありますか?一番の歌詞にはこんな言葉が綴られています。
一、
みどりをそめて朝の日が
高い梢にゆれている
嶺から嶺へ小鳥もよんで
岐阜は木の国山の国
伸びる希望をうたおうよ
※「岐阜県民の歌」
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/112.html
岐阜は木と山の国であることが歌われています。実際、岐阜県全体の面積のうち森林面積は約8割を占め、全国で2番目の高さです。データ上でも森林が豊富な地域であることがわかります。
また、県の南北で森林の姿がちがっていることも大きな特徴です。北部の飛騨地域には、御嶽山や乗鞍岳など3000m級の山々がそびえ、南部の美濃地域は濃尾平野が広がっています。県の北から南にかけて、なだらかな滑り台状になっているというとイメージしやすいでしょうか。
標高によって気温などの環境が異なるため、それぞれ生えてくる木や山全体の姿は一様ではありません。例えば、比較的暖かい県南部は常緑広葉樹が多く、落葉広葉樹は少ないです。一方、気温の低い県北部は常緑広葉樹よりも落葉広葉樹の方が育つのに適しているため、紅葉の季節になるとカラフルな山々をより多く目にすることができます。
こうした豊富な森林資源に恵まれているのは、戦後に日本全体で植林が推し進められたことが関係しています。というのも、当時は戦後復興などで木材がたくさん必要とされました。もちろん戦時中も資材として木材が多く使われたため、山林での伐採もどんどん進んでいる状況でした。これにより、戦後は荒廃していた森林も各地に多くあったようです。そのため、戦後は木材生産とともに植林も急務でした。
木は苗を植えてから伐採するまで60年ほど育てる期間が必要です。しかし、植えたときから60年後の社会状況が同じままだとはかぎりません。実際、プラスチックなどの工業製品が登場したことで木材を使う機会は減ってきており、戦後の状況と現在はまったく異なっています。
さらに、木材の需要が少なくなるにつれ、木材価格も下がっていきました。木材の単価が低くなれば、その分、森林所有者や林業に携わる人々に還ってくるお金は少なくなっていきます。そうなれば苗木を買ったり、作業する人を雇ったりする費用を削らなければなりません。植える、育てる、伐採する、使う、という森のサイクルが循環しづらくなってしまいます。
逆に言えば、木を適切に活用することは、このサイクルを循環させる後押しになります。持続的に森林を活用していくためにはどの工程も欠かせないのです。
森と木材をつくる人々
岐阜県の森林面積は約86万ヘクタールです。1ヘクタールは小学校の校庭くらいの広さなので、86万個分の校庭を想像してみてください。このとてつもない規模を対象にして、森林整備や木材生産を行う森林技術者は県内に何人いるでしょうか?
答え:約900人
森林技術者は林業会社や森林組合などに所属している人が多いですが、一人親方や自伐型林業と呼ばれるような形で個人事業主として働いている人もいます。では、林業で働く人たちはどのような仕事をしているのでしょうか。植林を起点に、林業全体の流れを見てみましょう。
まず、林業で生産される木材の多くが、木材用途の中でも価値が高いとされる建築材(柱や梁など)としての流通が想定されています。そのため、木を真っ直ぐに育てることが求められます。
苗木を植えたあとの数年間は、まわりの下草を刈り取る「下刈り」や支障木を伐採する「除伐」を行います。邪魔になる植物を取り除くことで、成長に欠かせない日光を十分に浴びられるようになり、木が真っ直ぐに育ちやすい環境が整います。
30~40年ほど経つと木がある程度大きくなり、森林の中が混み合ってきます。日光が当たりづらくなるため、木を間引く「間伐」を行い、木々のさらなる成長を促していきます。そして「主伐」と呼ばれる最終的な収穫作業は、植林して60年後くらいに行われます。これは柱や梁などのサイズが採れる太さに成長する頃でもあります。
60年となると1世代で完結させることは難しいでしょう。例えば自分の実家に所有する森林があると仮定して、60年前に祖父母の代で植えた木を30年前に父母の代で間伐し、今の自分の代でようやく伐採して収穫できることになります。1年ほどで作物が育つ農業とは異なり、林業は2~3世代にわたってバトンをつなぎ、木を育て続ける必要があります。
次の世代に引き継いでいくことが重要な産業であるからこそ、適正な価格で木材を売買し、その利益をもとに植林して育てていくサイクルが林業には欠かせないのです。
ただ、林業だけでは私たちの手元に木は届きません。そこで重要な存在となるのが木材産業です。山から出てきた丸太をさまざまな材料に加工し、暮らしの中で使いやすい形に変えていきます。製材機を使えば簡単に丸太が挽けそうな気もしますが、製材機を操作する職人の技術力が肝心となる作業工程です。
木は生きものだからこそ、丸太の状態でも1本1本の特徴は違います。木の曲がりや繊維のねじれなど、それぞれの木の性質を見極めて、より価値が高まるような部材のサイズを瞬時に判断して挽いていきます。それと同時に、1本の丸太のうち使える部分がより多くなるよう、パズルを逆算するように部材の組み合わせを考えながら製材するのも、職人の腕の見せどころです。
林業・木材産業ともに担い手は減少傾向にあるとされていますが、その一方で若い世代や女性、異業種から新たに入ってくる動きも見られます。SDGsの流れの中で森林の持続可能な管理に興味を持ち林業をはじめる若者や、森林空間そのものに価値を生み出そうと森林のレンタルをはじめる人、自ら木製品の商品開発などを行う林業事業体なども出てきています。
闇雲に木を伐って売ることだけを考えるのではなく、自ら新たな価値をつくり出そうと試みている人が少しずつ増えています。それぞれが工夫を重ねることで、森林を次の世代につなぐ輪は確実に広がっています。
木のものづくりと職人たち
材料があれば、あとは調理して、盛り付ける人がいれば完成です。木材でいうと、建物をつくる大工や家具・木工品を制作する作家などがその役割を担います。中でも岐阜県では、「飛騨の匠」とよばれる大工・木工技術が昔から高い評価を得てきました。奈良時代の前後には飛騨の国から都へ匠が派遣され、平城宮・興福寺・東大寺などの造営に関わっていたとされています。
こうした木を使う文化が残る地域ではありますが、ご多分にもれず大工の担い手も減少傾向にあります。2020年度の国勢調査によると、岐阜県の大工就業者数は6920人です。10年前の調査から約2000人減っています。
この一方、木工技術を継承していく取り組みも県内各地に広がっています。木工職人を養成する〈森林たくみ塾〉(高山市)や、木造建築・木工の専門コースがある〈岐阜県立森林文化アカデミー〉(美濃市)など、学びの場が県内に点在しています。
また、飛騨地域は“脚物家具”の産地としてもブランドを確立してきました。大正9年に創業した〈中央木工株式会社〉(現・飛騨産業)が飛騨家具の発祥とされ、当時は周辺の山々に生えていたブナを使った曲木のイスなどがつくられていたようです。
昭和の時代に入って柏木工・日進木工・シラカワなど今も活躍している家具メーカーが登場し、家具の一大産地へと成長して現在に至ります。2020年工業統計調査によると、「木製机・テーブル・いす」の出荷額は岐阜県が約211億円で、全国トップです。
今なお飛騨の家具メーカーの代表的な存在である〈飛騨産業〉は、家具に不向きとされる柔らかい“スギ”を活用しようと、加熱圧縮により強度を持たせる技術を開発し、家具におけるスギ材活用の道を切り拓いてきました。
他にも地域材の活用を得意とする〈オークヴィレッジ〉では、全国各地の自治体などと連携して、各地の広葉樹材を家具として活用する流通網を構築する取り組みを広げています。国産家具の多くが外国産の木材を使っている現状からすると、かなり革新的な取り組みです。こうした活動を含め、飛騨地域は全国の数ある家具産地の中でもチャレンジングな産地であると言えます。
ここまで見てきたとおり、岐阜県は豊富な森林資源に囲まれているとともに、木を活かす文化も蓄積されてきた地域です。そして、今もなお“木の国山の国”であり続けているのは、木が一人前になるまで手塩にかけて育てる林業、木の個性を引き出して活かす製材など、子育てをするような感覚で日々森や木と向き合っている職人たちがいるからなのでした。