Forest Shutter 森の暮らし
# 2
山形で暮らし、道(トレイル)をつくる
プロハイカー斉藤正史の場合
2020.3.25

山に根差した暮らしを営む人びとの日常を伝える「Forest Shutter」の第2回は山形でトレイル作りと整備に携わる斉藤正史さん。東京での仕事に区切りをつけ、Uターンした山形で地元の自然を守り、伝えていこうと奮闘する日々をお届けします。

写真・文:斉藤正史/編集:小林昂祐

トレイル整備と自然に寄り添う生活で感じる
森と街を行き来することの大切さ

23年前、父の死をきっかけに生まれ育った山形に戻ってきた。それは、長男であったこと、妹が高校生だったことが大きかったかもしれない。後ろ髪を引かれながら地元に戻ったことを今でもよく覚えている。2005年、転職を機にアメリカ3大ロングトレイルのひとつアパラチアントレイルを踏破し、再び会社員に戻った。

そして、2012年、会社員からプロハイカーに転身した。それと同時に友人たちの勧めと協力もあり、山形にトレイルを作る活動を開始した。

トレイルは、バックパッキング(文明が忘れた自然と融和し生きるための術)を体現するためにある道のりである。このため、人はトレイルを通して、自然を知り、自然に愛着を持つ。そしてその心が自然保護に繋がっていくと考えられている。アメリカ連邦政府が施行するトレイル法において、シーニックトレイル(いわゆるハイカーが歩くトレイル)は、連続した自然遊歩道を持つことなどが条件として付される。

ついつい本業の話になると難しい話になってしまう。ただ難しいものをあまりに簡単にしてしまうと全く違う意味になることが多い。アメリカと日本では、その法律から制度までが大きく違う。日本にトレイルを作るには、本場のトレイルを知り、日本の制度に合わせて加工していく作業が必要になるのだ。だから僕はトレイルを歩く。

僕たちは、山形にトレイルを作る方法として、新たな道を作るのではなく既存の道を繋げていくことを考えた。新規の道を作ることは、法律上難しいだけではない。環境に関するダメージも大きくなるのだ。環境に配慮した道作りは、アメリカのトレイルに習い、目立つ道標を作るのではなく、マーカーを括り付ける方法で実践しはじめた。

自然に極力人間の手を加えない形で利用し、トレイルを、自然を知ってもらえる道にするためだ。そして何より、有志の手により各地でトレイルが作れるように、日本の法律や制度に従って正式な手続きを経た形で僕たちはトレイルを作ろうとしている。

山の中に住むのではなく
自然に寄り添える距離で地域に暮らす

僕が住んでいる家は、父が生前、山形県上山市に建てた。僕には縁もゆかりもない土地だった。人口3万人を下回る山形市のベットタウン。ファミリーレストランもこの町にはない。僕は、同級生も友人も学校も職場も山形市だった。

恥ずかしながら、サラリーマン時代の僕は、今住んでいるこの上山のことを全く知らなかった。当時の僕には、ただ住んでいるだけの場所でしかなかった。

会社員からプロに転身し、トレイルを山形に作る活動をするようになってから、地域のことに興味を持ったり、地域に何か貢献できないかと考えたりするようになった。そして、僕は地元の消防団に入り、山形県村山地区YYボランティア活動アドバイザー(中高生のボランティア活動の推進)や、スラックラインの先生などをするようになっていった。

もちろん、本業だけの生活は難しい。しかし、いろいろな仕事をすることでなんとか生活が成り立っている。友人の会社を手伝ったり、毎年春には果樹園でお手伝いをさせてもらったり、クラフトの先生をしたり、応援してくださる方々に支えられながら僕は生きている。

だから、僕は自分の信じる道や信念を通す生き方ができるのかもしれない。そんなことへの感謝の意味で、僕は労働力を提供することで地域に還元したいと思っている。住む家からは蔵王のトレイルルートやスキー場、蔵王連邦からバックカントリーエリアまで、車で30分ほどで着く。

そして、部屋の窓から蔵王連邦がよく見える。天候が変わりやすい蔵王の山々も、この部屋から眺めればその状況がよくわかる。だから、天気のいいタイミングを見計らっていくこともできるのだ。今となっては、この場所に家を建ててくれた父に感謝している。

田舎に戻ってきてから取り戻したものがある。東京ではできなかった登山、釣り、ツーリング、キャンプ、冬山、など、自然や四季に関わる全ての恵みとともに歩む遊びだ。ここでは、自然に寄り添う生活がある。

僕は思う。田舎で暮らすことは、その土地に愛着を持ってすごすことであって、何もこ洒落た古民家に暮らしたり、山の中でポツンと一軒家のような暮らしをしたりするようなことではない。田舎暮らしに対してハードルを上げる必要はない。何も農家になる必要も、林業をする必要も、何かになる必要なんてないのだと思う。

そこにある仕事をして、仕事終わりに、休日に自然を楽しめばいい。そして地域に仲間を作ればいいのだと思う。それが地域に溶け込むことになるのだろう。

アパラチアントレイルを歩き終えて考えたのは、休みのしっかりとれる会社に勤め、休日は自然や子ども達と関わることをしたいという想いだった。休日の取れる会社に勤め、月に1度程度、山形県の少年自然の家でボランティアスタッフをするようになった。そこで知り合った仲間たちと自然の家の活動以外でも、キャンプをしたり、手作りで雪板(スノーサーフィン)を作って滑ったりしている。トレイルを歩く前、仕事人間だったサラリーマン時代の僕には想像もしなかった生き方だ。

今は、物質社会と自然の中を行ったり来たりする生活をしている。時にはトレイルを歩き、トレイルを整備し、時には文明社会にどっぶり浸かり、テクノロジーに頼った生活もしている。だからこそ、自然のすばらしさも、怖さも、人間の英知も危うさも知るのだと思う。

トレイルを介して、田舎暮らしを通して、片意地張らず自分らしいスタンスで自然を体験してほしい。自然と文明を行き来することで、人間が自然と山とどうあるべき考える機会になると思う。そんな未来の見える生活も悪くはないと思う。

小林 昂祐 (こばやし・こうすけ)
編集者。山と街の間の三鷹在住。奥多摩、八ヶ岳方面に山登りに行くことも多い。自然と、自然に根差した営みを取材することをライフワークとし、フィールドジャーナル『NatureBoy』を刊行。2020年、おやつを文化として捉えた『OYATTU magazine』を創刊。写真集専門店・book obscuraディレクター。