WORLD FOREST NEWS
# 9
戦争と木材
2022.7.7
中部森林管理局写真提供

近頃の世界的なニュースといえば、やはりウクライナとロシアの戦争でしょうか。森林や木材は戦争と関係ないように思えますが、ロシア産の木材が日本の建築材として使われているため、一部原料の入手が困難になり、建築資材が高騰しているという話を聞きます。そうした世情を知るうち、ふと、日本の戦時中は森林や木材がどのように扱われていたのかが気になってきました。そこで今回は、第二次世界大戦下の日本における“木材統制”に注目し、戦争と木材の歴史のごく一部を眺めてみることにします。

※提供写真は戦時中の年代に近いものをイメージ写真として入れています。木材統制とは関係ありません
写真・文:田中 菜月

強制的に
木が伐採されていた

第二次世界大戦中の日本では、国家総動員法が公布され、経済や言論などあらゆるものが国によって統制されていたことは周知のとおりです。木材もその統制下における取り締まりの対象でした。

1941年3月には「木材統制法」が公布され、同年6月に施行されています。ちなみにこの時期は、日独伊三国同盟が結ばれ、大政翼賛会が結成されたあとであり、真珠湾攻撃(太平洋戦争はここから)の前にあたります。

戦時統制期について記された『日本林業発達史』を参考に、当時の様子を探ってみました。この本によると、木材統制法では「木材生産の全過程およびそれらの流通過程に対する全面的な強制措置が規定されて」(大日本山林会 1983:487)いました。強制措置の主なポイントは以下の4つに分けられます。

① 山林所有者に対する統制機関への丸太の売り渡し命令
② 木材業者に対する統制機関への木材の売り渡しまたは販売委託命令
③ 木材の消費量や用途の制限・禁止
④ 製材・木材業の許可制

そして、木材の統制機関として設立された「日本木材株式会社」と、地域ごとにできた「地方木材株式会社」によって、生産と流通がコントロールされることになります。

(大日本山林会 1983:415)

この法律が施行される前段階では、戦争の影響により木材の輸入が制限されたことと、多様な使い道のある木材が各方面から求められたために木材価格が高騰していました。上の表から、木材の物価指数が跳ね上がっていることがわかります。

こうした状況で木材生産を確実に行い、需給を調整し、価格を安定させるために木材統制法が立案され、木材の生産・流通過程の合理化が進められたのでした。

独裁国家さえも悩ませる
林業の世界の複雑さ

こうして強大な国家権力によって木材の生産と流通がうまく管理されていた、ように思えるのですが、実際の現場はかなり混乱が起きていたようなのです。

先ほど引用した書籍を再び読んでみると、こんな記述がありました。

「統制経済が押し進められて、低物価政策を維持してゆくため商品の流通過程を合理化し、生産力拡充のために生産過程を合理的に組織していくことが、現実的な課題となった際、この分散された素材生産過程の秩序づけがきわめて困難な分野として問題になったのであった。

(中略)こうした問題の根源は混沌たる木材業の業態、すなわち素材生産過程とその流通過程が第三図にみられるように森林所有と木材工業の二大経済範疇の間に挟まれて分断・分散され、それを主体的に統合し、秩序づける組織体を欠いていたからであった」
(大日本山林会 1983:413)

(大日本山林会 1983:412)

加えて、地域によって生産・流通過程や木材の規格などがかなり多様化していたため、統一ルールをつくって一元的に管理していくことは相当に困難を極めていたようなのです。

岐阜県を例に見る
木材統制の実態

地方木材株式会社の設立を命ぜられた各地域では、現場レベルでどのように対応していたのでしょうか。もう一つ別の資料をもとに当時の様子を探ってみましょう。参考資料は、1972年に岐阜県木材協同組合連合会から出版された『大東亜戦の林政に残した足跡 岐阜県木材統制の追憶』です。

この資料には、1939年〜1942年まで県職員として木材関係の主任技師を務め、その後も木材統制会社で総務部長や常務を担当していた河野一男氏による、当時の記録と追憶が記されています。

資料によれば、以下の順序で少しずつ統制が厳しくなっていったことがわかります。

① 木材の生産規格の統一
② 県内の地域・流域別に統制会社を設立
③ 岐阜県地方木材株式会社の設立(別々だった会社を統合)

①の段階では、1939年9月に「用材生産統制規則」、1939年10月に「用材規格規程」、1940年10月に「用材配給統制規則」が国により制定されます。例えば用材規格では、丸太の材種、形量、品質等の区分・測定方法、製材では材種、形量、単位数量、生産規格、品質測定区分などについて定められました。

これらの規格化の整備と同時に、規格に合格しているかどうか判断できる人材が必要になります。岐阜県では急遽、木材検査員を養成し、200名前後を県下に配置して1939年11月から検査をスタートさせました。

こうしてルールの統一化が進められていったのですが、一筋縄ではなかったことが前述の河野氏の証言から伺うことができます。

「製材品は誠に地方により区々(まちまち※編集部注)で県内でも所により寸法も相違し例えば4分板と厚さが表示されていても内容は2分1厘又は2分3厘等、6分板、8分板も皆然りで生産地の慣行で異り、殆んど実寸はなかった。そしてこれは全国的にそれぞれの習慣があったので、内容を知らねば取引に心配があった」(岐阜県木材協同組合連合会 1972:4‐5)

4分板の厚みは約1.2㎝で、2分はだいたい半分なので0.6㎝くらいでしょうか。この時代のサイズに対する意識はかなりルーズだったことがわかります。

さらに、統制実施に関して管理する立場にあった河野氏は当時の心情をこう振り返っています。

「本法実施までは、国の指導に基づき、これが実施準備の方策が講ぜられたが、業界では余りにも深刻な変革なのと、即生活に対する不安があり、容易に政府の指導に乗り得なかった。

しかし、本令は、国家総動員法に基づき、その好むと好まざるとを問わず無条件に従わねばならないもので、担当官としても、指導連絡に堪えがたいものがあったが、軍国下の戦時体勢の強化整備には、当然これが強力な指導に邁進せざるを得なかった」
(岐阜県木材協同組合連合会 1972:10

その後、②の段階になると、県内の流域ごとに分けた6つの会社(下記)と、それらを統轄する「岐阜県木材株式会社」が1941年に設立されました。

・岐阜県中央地区木材株式会社(岐阜市)
・岐阜県高山地区木材株式会社(高山市)
・岐阜県飛驒川地区木材株式会社(美濃加茂市)
・岐阜県東農地区木材株式会社(恵那市)
・岐阜県大郡上地区木材株式会社(郡上市)
・岐阜県西濃地区木材株式会社(大垣市)

そして③の段階では、より一層国の指導力を高めるため、1つの県につき1つの地方木材会社へと統一する方向になり、1944年に「岐阜県地方木材株式会社」が設立されるに至ります。

実際、全国の地方木材株式会社の整備が完了したのは、木材統制法の施行から約3年後の1944年4月でした。とは言え、現実は木材の需要者が生産者などと直接契約を結び、統制機関が追認するような形式的存在となりつつあったようです。

地方木材株式会社とそれらを統轄する日本木材株式会社とのあいだでも競合が激しくなり、統制機能も混乱していたと言います。そのため、日本木材株式会社による統制を強めていったのですが、結果的にはトンネル会社としての性質を強めてしまうことになります。

兵力伐採
そして終戦へ

こうした統制により木材生産が進む中、伐採跡地に植林をして更新を促進する事業も当初はあったようなのですが、戦争が進むにつれて不要不急の事業と判断されて停止となり、木材生産のみが加速して森林の荒廃につながっていきました。

1943年頃の斧を使った伐採の様子(現在の南信森林管理署管内)。写真提供:中部森林管理局

さらに、空襲が激化してくると、木材の生産・調達計画そのものがますます混乱に陥ります。太平洋戦争の末期である1944年には、陸軍からの通達で兵力による木材調達が行われるようになりました。この兵力伐採は南九州・高知・和歌山・愛知・静岡・神奈川・千葉・茨城などの地域に集中していたようです。もはや統制どころの話ではありません。

戦局が厳しくなるにつれて木材統制はうやむやになり、1945年8月15日、ついに終戦となったのでした。

【岐阜県から見た木材統制年表】
1937年7月  日中戦争 勃発
1938年5月  国家総動員法 施行
1939年9月  第二次世界大戦 勃発(ポーランド侵攻)
1939年9月  用材生産統制規則 制定
1939年10月 用材規格規程 制定
1939年11月 岐阜県での木材検査開始
1940年10月 用材配給統制規則 制定
1941年6月  木材統制法 施行
1941年?月 岐阜県木材株式会社 設立
1941年12月 太平洋戦争 勃発(真珠湾攻撃)
1942年6月  ミッドウェー海戦
1944年?月 岐阜県地方木材株式会社 設立
1945年8月  終戦

1936年林業訓練を受ける若者達の昼食風景(現在の飛騨森林管理署管内)。写真提供:中部森林管理局

戦争を強行する国の権力を使っても、林業・木材業の領域は完全にコントロールできないものなんだ、と木材統制の歴史を振り返ってみて感じました。そして、流通構造の複雑さは今とあまり変わってないんだな、という点も意外な発見でした。今後も他の視点から林業の歴史について掘り起こしてみたいと思います。

【参考資料】
・大日本山林会『日本林業発達史』編纂委員会(1983)『日本林業発達史ー農業恐慌・戦時統制期の過程』社団法人大日本山林会
・岐阜県木材協同組合連合会(1972)『大東亜戦の林政に残した足跡 岐阜県木材統制の追憶』同会
・中部森林管理局「中部の森林」連載『秘蔵写真・今は昔の林業』https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/photo/monokuro-ringyoukikou.html(2022年6月16日閲覧)

田中 菜月 (たなか・なつき)
1990年生まれ岐阜市出身。アイドルオタク時代に推しメンが出ていたテレビ番組を視聴中に林業と出会う。仕事を辞めて岐阜県立森林文化アカデミーへ入学し、卒業後は飛騨五木株式会社に入社。現在は主に響hibi-ki編集部として活動中。仕事以外ではあまり山へ行かない。