WORLD FOREST NEWS
# 4
マツタケが絶滅の危機!?
里山に起きた異変とは
2020.10.23

世界や日本の森にまつわるニュース情報から、編集部が気になることを掘り下げる、WORLD FOREST NEWS。“森林文化”について幅広く学ぶことができる全国でも稀有な教育機関「岐阜県立森林文化アカデミー」の先生を講師に迎え、わかりやすく解説してもらいます。今回は“マツタケが絶滅危惧種に指定”されたニュースから、その背景でどんなことが起きているのか教えてもらいました。

写真・文:津田 格(岐阜県立森林文化アカデミー 教授)

痩せたアカマツ林
マツタケにとっては好条件

2020年、マツタケが絶滅危惧種に指定されたとのニュースが報道されました。国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストが更新され、そこにマツタケが“危急(VU)”として記載されたのです。金銭的な理由ですでに食べる機会がほとんどない人もいるとは思いますが(私も同様です)、なぜここまでマツタケが減ってしまったのでしょうか。日本人のかつての暮らしとマツタケの関係から考えてみましょう。

“マツタケ山”として管理されたアカマツ林。かつてはこのようなアカマツ林が日本全国に広がっていたと考えられる。

マツタケの発生は人々の里山利用と大きな関係があることはよく知られています。里山林のひとつであるアカマツ林はかつて、燃料や肥料の供給源となっており、背の低い雑木(柴)や松の落ち葉は日々のお風呂や炊事の焚き付けに使われていました。さらに林床(森林内の地面と面するところ)の草本や柴は、田畑にすき込む「刈敷(かりしき)」という肥料にも用いられ、大きく成長したアカマツは建築材や薪炭としても使われました。また、林内で倒れたり枯れたりした木が生じてもすぐに伐採され、燃料として消費されていたのです。

このような形で途切れることなく使われてきたアカマツ林は、風通しもよく掃き清められたような景観だったそうです。落ち葉が厚く堆積し、薮山となった現在のアカマツ林とは異なるものでした。

薮山と化した現在のアカマツ林。足を踏み入れることも困難な状態になっている。

アカマツ林に生息するマツタケは、アカマツを主な共生相手とする「菌根菌(きんこんきん)」です。宿主である樹木の根に「菌根」という器官を形成し、栄養のやり取りをして生活しています。また、マツタケは他の菌やバクテリアなどとの競争に弱く、栄養の多い肥えた土壌では生活しがたいことがわかっています。アカマツの樹齢も関係があり、マツタケの生育には50年生くらいまでの比較的若いアカマツ林が良いとされています。

人々の利用により維持されてきたアカマツ林は、その利用ゆえに土壌が痩せて植生も乏しく、豊かな森林環境とは言いがたいかもしれません。しかし、マツタケにとってはこの上ない好環境だったわけです。

マツタケは
万葉集に登場

押し合いへし合いするように生えるマツタケ。かつては各地でこのような光景が見られたという。

マツタケにとっての好環境は日本に稲作が伝来した頃に形成され始めたと考えられています。日本におけるマツタケの最初の文献記録は『万葉集』とされ、そのなかで「高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて 盈(み)ち盛りたる 秋の香のよさ」と詠まれています。「秋の香」はマツタケの香りを表したもので、マツタケが山の峰に笠を立てているように並んで生えている様子が表現されたものと解釈されています。

その後も、人口増加に伴い里山林の利用は拡大し続けていきました。江戸時代の都の周辺を描いた絵図を見ると、山には松らしき樹木が描かれていますが、それ以外には樹木はなく、林床にはわずかの柴や草本が描かれているのみであったりします。また多くは、マツの木の根元やその間から見える稜線も明瞭に描かれています。しかしながら現在、私たちの周囲の山々を遠望してみると、林冠(高木の枝葉が茂っている部分)に覆われ、稜線や林床が木々の間から見通せることはほとんどありません。

つまり今の植生豊かな山々からは想像もできない状況が描かれているわけですが、当時はこのような景観のマツ山が普通だったと考えられるのです。もちろん過剰な利用によりアカマツさえも生えることができない禿げ山もあったはずですが、多くの場所ではアカマツとマツタケ(とそれを好んで食べる人々)にとって最適な森林環境が広がっていました。

プロパンガスと線虫が
追い打ちをかける

そういった状況が一変したのは昭和30年代です。その頃導入され始めた“プロパンガス”はあっという間に薪や炭に取って代わり、焚き付けのための柴刈りや落ち葉掻きも行われなくなりました。また昭和36年に施行された農業基本法により効率的な農業が押し進められ、化学肥料や農業機械が使用され始めました。化学肥料の普及により刈敷が用いられなくなっただけでなく、農業機械の利用により田畑で使われていた牛馬が不用となり、飼料とする柴草の刈り取りがなくなりました。牛馬から得られる堆肥もなくなり、それがさらに化学肥料の使用を加速化させたと言います。

これらの変革が短期間に全国津々浦々で起こり、里山のアカマツ林はあっと言う間に低木の生い茂る藪山となり、落ち葉が堆積して土壌の富栄養化が進んでいったのです。それはマツタケのすみかが奪われていったことにほかなりません。

「マツノザイセンチュウ」により枯れていくアカマツ。多くのマツ林がこの病気で気息奄々(きそくえんえん)の状況にある。

また“マツ枯れ(マツ材線虫病)”のまん延もマツタケの減少に拍車をかけました。この病気の病原体である「マツノザイセンチュウ」は、カミキリムシによって枯死したマツから健全なマツへと運ばれます。かつては枯死したマツがあればすぐに伐採され燃料として用いられていたため、それが意識せずとも病気の防除につながっていました。しかし昭和30年代以降、里山利用の減少とともにそのようなこともされなくなり、病気が広がってしまいました。もちろん線虫やカミキリムシを駆除するための防除対策は各地でなされていますが、追いついていないのが現状です。健全なアカマツがなくなると、もうマツタケも生きていくことはできません。

マツ枯れのまん延も含め、マツタケの減少の原因は、私たちが里山の利用をしなくなり、その状況に気を留めることがなくなったことにつきます。ではマツタケを今まで通り食べていても大丈夫でしょうか?これには採って食べているマツタケがどういったものなのかを知る必要があります。

マツタケ狩り
=花を摘んでいる?

私たちが採って食べているマツタケは「子実体(しじつたい)」という部分で、胞子を作るための生殖器官です。植物でいうと花の部分にすぎません。つまりマツタケ狩りは花を摘んでいるのと本質的には大きな違いはないのです。植物の場合、花を摘んでも根、茎、葉にあたる本体は残り、その個体は生き残ることができます。

それではマツタケの本体は何でしょうか?それは「菌糸(きんし)」と呼ばれるもので、その菌糸はアカマツの根と「菌根(きんこん)」という共生体を形成し、栄養のやり取りをしながら土壌中で生長していきます。菌糸は有機物が少ない鉱質土壌中で同心円状に拡大し、その周縁部でマツタケの子実体が発生します。

かつてのアカマツ林には子実体が輪の様に並んで発生したそうですが、このように地中に菌糸が広がり、子実体が発生するところは「シロ」と呼ばれています。適齢期のアカマツ林ではシロは年々生長し、それに伴ってマツタケの子実体発生量も増え続けます。植物の花摘みと同じですので、子実体を採る行為自体はそのシロの存続には大きくは影響しません。ただし、「つぼみ」の方が高く売れるため、傘が開く前に採られてしまう場合も多く、そうなると飛散する胞子が少なくなり新たなシロが形成されにくくなります。またつぼみを取ろうとして荒っぽく土を掘り返すと地下にあるシロが損傷します。つまり食べる行為は直ちにはマツタケの減少にはつながりませんが、採取の段階において将来のシロの生長や増加を妨げる可能性があるわけです。

まつたけ山
復活させ隊

マツタケの生産量を増加させることは容易ではありませんが、やるべきことはわかっています。かつて人々が里山を利用していた頃のアカマツ林の環境に戻してやれば良いのです。そのためには積もり積もった林床の落ち葉や腐植を掻き取り、はびこった広葉樹を適当な密度に伐採する必要があります。枯死木を処理し、場合によってはアカマツの播種(はしゅ:種まきのこと)や苗木の補植も必要かもしれません。それ以外にも地質や地形がマツタケに適しているか、マツタケ胞子の感染源が近くにあるかどうかなど、注意すべき点は多くあります。

時間はかかりますが、それでもマツタケ山の復活を夢見て活動し続ける人たちが各地に存在します。例えば京都の「まつたけ山復活させ隊」はそのような人たちの集まりのひとつです。代表の吉村文彦氏は1990年に岩手県岩泉町に設立された「岩泉まつたけ研究所」の所長を長く務め、里山のアカマツ林に手を入れて岩泉まつたけの増産とブランド化に成功しました。その後、出身地の京都に戻り、京まつたけの復活に力を注いでおられます。活動を始めて3年後、活動拠点のアカマツ林でマツタケの子実体発生が確認できたそうで、その後も活発な活動が続いています。

野菜や果物とともに店頭に並ぶ数多くの野生きのこ。岐阜県の飛騨地方や東濃地方の市場では、秋になるとこのような光景を見ることができる。

また山から得られるものはマツタケだけではありません。例えば、秋に岐阜県高山市などの朝市に出かけると、種々多様なきのこ類が販売されているのを見ることができます。以前調べたところ、岐阜県の飛騨地方だけでも20種類以上の野生きのこが扱われていました。東濃地方も含めると岐阜県下で30種類にも及びます。

これらは地域の食文化としても興味深いものですが、マツタケと同様に山と人の関係が変化するのに伴い、減少しつつあるものも多いと考えています。マツタケも含めそういったきのこ類を賞味しつつ、里山の環境に目を向け、人との関係について考える人が増えれば、身近な里山の環境も良い方向に変わっていくように思っています。

《参考文献》
有岡利幸『ものと人間の文化史84 松茸』(法政大学出版会)
吉村文彦&まつたけ十字軍運動『まつたけ山“復活させ隊”の仲間たち』(高文研)

●岐阜県立森林文化アカデミーの公式サイト

Profile
津田 格●岐阜県立森林文化アカデミー教授。専門は菌学、線虫学。大阪府出身。1993年、京都大学農学部を卒業後、京都大学大学院に進学、ヒラタケに病気を引き起こす線虫の研究を始めたことをきっかけに様々な野生きのこを利用する線虫の生態について研究。2001年博士号(農学)取得。2001年より現職。現在は里山利用に関連したきのこの栽培などに取り組むとともに、きのこなどの特用林産物の地域での利用調査や里山の淡水藻類の分布調査などを行なっている。著作物に「森林微生物生態学」、「線虫学実験」(分担執筆)など。
https://www.forest.ac.jp/teachers/tsuda-kaku/

田中 菜月 (たなか・なつき)
1990年生まれ岐阜市出身。アイドルオタク時代に推しメンが出ていたテレビ番組を視聴中に林業と出会う。仕事を辞めて岐阜県立森林文化アカデミーへ入学し、卒業後は飛騨五木株式会社に入社。現在は主に響hibi-ki編集部として活動中。仕事以外ではあまり山へ行かない。