お米づくりが難しい山間部などを中心に、各地で発達してきた小麦を使った食文化。代表的な料理のひとつに、山梨県の郷土食「ほうとう」がある。山梨県内では高度経済成長期のころまで、夕刻になると多くの家庭でほうとう用の麺を打つ光景が見られたというが、食材の多様化とともに、ほうとうが食卓に上る機会は減ってしまった。
冬は厳しい寒さが続く八ケ岳南麓の開拓地で生まれ育ち、郷土の味を半世紀にわたって継承してきたひとりの女性に、身体が芯から温まる高原野菜をたっぷり使った手軽な手打ちほうとうの作り方を教えてもらった。
「地粉」で引き出す強いコシ
東京都心から車で約2時間半。八ケ岳山麓に広がる山梨県北杜市で、常連客に人気の自家製ほうとうを作り続けているのが小宮山博子さん(70)。父の福一さん(故人)が約50年前に開業した民宿「天女(てんにょ)山荘」を引き継ぎ、自家栽培の高原野菜や天然きのこなどを使った料理で常連客の人気を集めている。
開発が進む八ケ岳山麓で、開拓当時の面影を残す貴重な宿だ。息子の信吾さん(37)は、地元で3代続く林業会社「天女山」の経営者。親子で地域に根差した暮らしを送っている。「天女山」とは山荘の近くにある小高い山の名称で、富士山や南アルプスの眺望に優れた展望スポット。地元では地名としても親しまれている。
紅葉が終わり、観光客の姿も少なくなった昨年末のある週末、年季の入ったカラマツ材の壁板がノスタルジックな雰囲気を醸し出す山荘を訪ねた。
懐かしい山小屋のような空気感が漂う山荘の中へ笑顔で招き入れてくれた博子さん。まずは熱々のコーヒーをゆっくりといただいてから、昼食用のほうとうづくりを実演してもらった。
博子さんのつくり方は、まず大きな木製のこね鉢に粉を入れるところから始まる。使う粉は長野県産の小麦でつくられた「地粉」と呼ばれる中力粉。強力粉と薄力粉の中間の性質を持つ中力粉は、おやき作りが盛んな信州で昔から親しまれているローカル食材のひとつ。大袋入りの「地粉」は信州のスーパーで手軽に買えて、長野県との県境に位置する北杜市でも愛用者がいる。
「地粉は小麦粉本来の風味がしておいしいわ。アップルパイなどいろんな料理に使っているのよ」
「使う粉の量は目分量」と言いながら手早く袋から3人分の粉をこね鉢に出し、塩をひとつまみほど入れる。一人分の粉の目安は100グラム程度だろうか。続いて生地の硬さを確かめながらぬるま湯を少しずつ注ぐと、鉢の中で粉全体を大きくまとめるように両手でこね始めた。
最初は生地がぼそぼそとして指の間にくっつくが、しばらくこねていると生地全体に適度な粘りが出てきてなめらかに。体重を乗せながら両手でしっかりとこねていく。お米の代わりに主食として食べられてきたほうとうは、幅広で煮崩れしにくいコシのある麺が身上。こねるときにぬるま湯を入れすぎないように注意して、少し硬めの生地感に仕上げるのがポイントだという。
「昔は夕方になると男の子がよくこねていたものよ」
いまはスーパーで手軽に買えるようになったほうとう用の麺。手際よく生地をこねながら博子さんが教えてくれる。
「なめらかになるまでしっかりとこねたら、濡らしたふきんに包んで30分間寝かせれば生地ができるの。でも私は小麦粉の中のグルテンをまわすために2時間寝かせる。これで絶対においしい麺ができるわ」
自信たっぷりの語り口に思わずお腹が鳴った。
消えゆく開拓の歴史
麺を寝かせている間、山荘の食堂に置かれた薪ストーブの前で幼かったころの暮らしを聞かせてもらった。荒野が広がる極寒の地で「ひとが住むところではない」と言われた標高1000m超の八ケ岳山麓の高原。県内外の開拓者が入植したのは食糧増産が国策になった終戦後だ。暮らしを軌道に乗せるべく、厳しい自然環境の中、野菜づくりや酪農などで必死に生計を立てていたという。
現在の天女山荘がある標高約1300mの大泉高原で生まれ育った博子さんは、親族が旧大泉村の中心部で製材工場を経営したり、叔父が村長を務めたりするなど地域の産業や経済に深くかかわる家庭で育った。
とくに8年前に亡くなった父の福一さんは、北杜市内の八ケ岳山麓で現在も盛んに行われている林業の立役者として奮闘。八ケ岳山麓では終戦期頃、大規模な山火事が起き、鎮火後の広大な焼け跡にカラマツの苗を植えたり、植林用の苗を育てたりする造林事業にいち早く着手したのが福一さんだった。開拓者の現金収入をつくるため、新たな仕事づくりに心血を注ぐ福一さんの家にはいつも大勢のひとが出入りしてにぎやかだったという。
「四国から茨城までいろんな土地のひとが働きにきていたの。朝鮮語を話す人もいて教えてもらったわ」
その後、高度経済成長期が訪れるにつれて高原ブームや別荘ブームが到来。福一さんにも東京の大手ホテルから土地売却の打診があった。静かな高原の雰囲気が失われることを懸念した福一さんはその話を断り、進学先の東京の高校を卒業して故郷に戻っていた博子さんとともに天女山荘を開業した。
博子さんの家庭料理は8年前に亡くなった母・貞子さんの味を引き継ぎ、工夫を加えながら発展させたもの。料理上手だった貞子さんだが、客に出す料理をつくるのは嫌がり、料理好きだった博子さんが創業当初から厨房を任されてきた。
ほうとうや野沢菜漬け、たくわん漬けといった定番のほか、標高が高い場所でしか育てられない自家栽培の「花豆」の煮物や八ケ岳で捕獲されたシカ肉のみそ煮、自家栽培のじゃがいもを使ったコロッケなど、地元産の食材を使った四季折々の家庭料理には根強いファンがいる。
料理の根底には「自分自身がおいしく感じて、安心して食べられるものをつくる」というシンプルなこだわりがある。
「昔は粗末な家で朝起きると部屋の中に雪が吹き込んで積もっていたこともあった。でも冬の寒い日に母が作ってくれた甘酒を飲みながら食べる野沢菜漬けの味は忘れられないわ」
コンビニの出店が相次ぎ、道路やネット環境も整備されて都会とあまり変わらない暮らしを送れるようになった現在の八ケ岳山麓。先人が語る昔日の暮らしは隔世の感があった。
打ち立ての麺を
小鍋でグツグツ
しっかりと寝かせた麺の生地は、心なしかしっとりとしてなめらかさが増した様子。台の上に取り出してめん棒で薄くのばしていく。煮込むときにつゆが濁ってしまうため、打ち粉を少なめにして麺を打つのが博子さん流。
5ミリ程度の厚さに伸ばした生地を1.5センチ程の幅に包丁で切っていけば、コシの強い麺の完成だ。ほうとうはあくまでも家庭の日常食。麺の厚さや幅に多少のばらつきがある方が手づくり感が出て味わいが増す。
麺の用意ができたら、水と煮干し、市販のだし取り用のパックを入れておいた鍋を火にかけ、だいこんやにんじん、さといも、油揚げを加えて柔らかくなるまで煮る。野菜にある程度火が通ったら一人用の鉄鍋に取り分け、麺とはくさい、こまつな、長ネギ、適当な厚さに切ってあらかじめ蒸しておいたかぼちゃをいろどり良くのせて10分ほど加熱。最後に自家製みそを加えたら完成だ。
家庭によっては味付けに酒やみりんなどを加えることもあるが、博子さんは「だしとみそだけの味付けがシンプルでおいしい。蒸したかぼちゃを後から加えると煮崩れせずに色どりも良くなるのよ」と教えてくれる。みそは麦こうじを加えてうま味を引き出した博子さんの自信作。毎年仕込む常連客にも人気の味だ。
材料はシンプルに野菜だけが基本で「幼いころに母がつくってくれた味が好きで、今もそれをつくり続けている」と話す。家庭では小鍋に取り分けずに、大きな鍋でまとめてつくってもおいしいという。
グツグツと煮立った鉄の小鍋からは湯気が立ち上り、みそと野菜の香りが食欲をそそる。もっちりとした麺は食べ応えがあり、うどんとすいとんの中間のような食感だ。みそや煮干し、根菜のうま味が出たつゆの味は上品で、これなら主食として毎日食べても飽きがこないかもしれない。
「父は翌日、煮崩れてどろどろになったほうとうをご飯にかけて食べるのが好きだったのよ」
福一さんを懐かしむ博子さんの話に耳を傾けながら熱々のつゆを残さずいただく。身体がほっこりと温まった。
変わる暮らしと食生活
国産小麦の麺とかぼちゃやにんじん、こまつななどの緑黄色野菜を中心とした具材、それを発酵食品の代表格のみそで味付けするほうとう。栄養豊富で腹持ちもよく、お米が貴重だった時代には主食とおかずの役割を兼ね備えるような存在だったようだ。特に忙しい農繁期はひとつの鍋でまとめて調理できるため重宝されたという。
山梨県の農村部を中心に家庭料理の定番だったほうとうだが、博子さんは「近所で麺を打っている家はなくなったわ」と寂しそうな表情をみせる。
バブル経済の終焉とともに観光客の来訪や別荘ブームが落ち着いた八ケ岳山麓。コロナ禍が始まった一昨年以降は都会での密を避ける目的で、再び別荘地や移住先として注目が集まっている。一方、遠方の市街地や工業団地に通勤する住民が増え、核家族化も進む中、都会のひとがイメージするような「のんびりとした田舎暮らし」を送っている現役世代は移住者を含めて少ない。スーパーやコンビニのお惣菜売り場は都会と同様にいつも盛況だ。
身近な食材を活用して先人が築き上げてきた郷土の味は次の世代に継承されていくのだろうか。博子さんは「小学生の孫娘が黒豆の煮物や田作りを喜んで食べてくれるのよ」と笑顔をみせる。「昔からの味をずっと伝えていきたいわね」。そう静かに語りながら、薪ストーブに大きな薪をくべた。